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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 復活祭。 そしてエミの8歳の誕生日。
今日の夕拝の賛美のあと、牧師が「イースターや復活にちなんで、何か証のある人はいませんか? 『復活』の意味は人によってそれぞれ異なるでしょう。ある人にとっては癒しかもしれないし、またある人にとっては励ましかもしれない・・・ 皆さんにとってはどういう意味がありますか? 聖霊様から今、それを尋ねるよう、強く示されたのですが。」と突然言った。 びっくり。私は今日の午後中ずっとそのことについて考えていたのだ。神様が私にそれを証せよとおっしゃっておられるのだろうか? 私は思わず手をあげてしまった。本当は人前で話をするのは苦手なのだけれど。(しかも英語だし。) 「今年のイースターの季節、私はガラテヤ2章20節から繰り返し語られていました。私にとっての『復活』は『新しい命』、『キリストによって生きるための人生のセカンド・チャンス』を意味しています。 ・・・」 私はドキドキしながら証を始めた。 「実は約1年前の今頃、私は人間関係において大失敗をしてしまいました。あるクリスチャンの友人に対してとても意地悪なことをして、ほとんど意図的にその人を傷つけてしまったのです。その人を傷つけただけでなく、他にも何人かの方に迷惑をかけてしまいました。しかししばらくして自分が犯した罪の恐ろしさに気付き、謝らなければいけないと思いました。私にとって自分の失敗、愚かさを認めて、その人たちの前に出て謝るとうことはとても恥ずかしく、本当はしたくないことでした。でもどうしても謝らなくてはならないということはわかっていたので、思いきって謝罪したのです。私が傷つけたその人には、たとえ許してもらえないとしても仕方がないと覚悟のことでした。 しかし・・・ 許して下さったのです! その人も、他の人たちも。もしもその人に許してもらえなかったなら、私はその人や他の友人たちから離れることを余儀なくされていたことでしょう。残りの生涯を、自分の罪がもたらした恥の中に埋もれたまま生きなければならなかったでしょう。 けれども許してもらったのです! その人は私を許すことによって、私に、自分で壊してしまった人間関係をやり直すチャンスを、『新しい命』を下さったのです! しかも私が傷つけてしまったその人は、許して下さっただけでなく、私のベストフレンドになってくれました。これはまさにイエス様が私たちにしてくださったことと同じではないでしょうか? 十字架の上で私たちの罪を赦し贖い、新たな命を下さった。そして私たちの心の中に住むベストフレンドとなって下さった・・・ この時私は初めて、赦されることの喜びを身をもって知りました。赦すということがいかに人を生かすことになるのかということを学びました。私は赦された者なのだから、私もまた赦す者になろう、心からそう思うようになりました。 今年の復活祭の季節に、去年のこの出来事を思い出し、改めて、罪から解放され新たな命を与えられた者として、キリストと共にこの人生を生きるためのセカンド・チャンスを与えられた者として、ガラテヤ2章20節を自分のものとして告白しよう、そう思わされていたところでした・・・」 (4/4/1999 復活際) 先日のイースターの日記で、ちょっとした証を書いたが、それに関連してお友達のNちゃんからとても素敵な証をいただいた。あまり素晴しい証なので、少し長くなるが、Nちゃんの許可を得たのでここで紹介したい。(プライバシー保護のため、許可を得て一部割愛/変更してあります。) Nちゃんはしばらく前にAさんという方との間にちょっとしたトラブルがあり、その事に関して人前でAさんを批判するような発言をしたそうだ。心の奥底では自分のそのような言動に対してひっかかるものがずっとあったのだけれど、結局その人との関係はそのままになっていたという・・・ Nちゃんからの一通めのメール:
Nちゃんからの二通めのメール:
Nちゃん、恵みに満ちた証をどうもありがとう! ここで紹介することを快諾して下さってどうもありがとう! Nちゃんとのここしばらくのメールのやりとりを通して、「謝る」ということを通して、いかに神様の祝福がNちゃんの上に豊かに注がれているか、よくわかります。 クリスチャンにとって、「赦す」ことの大切さはよく言われるけれど、「謝る」ことについてはそれほど言われていない気がします。でも、謝ること(悔い改めること)もまた、許すこと同様、私たちイエス様の十字架によって生かされている者にとって、喜びと平安と、そして何より命の源なのかもしれないですね・・・ 結局のところ、私たちは皆 赦してもらうことなしに 生きてはいけない存在なのだから。
(4/7/1999) ニュースでは連日、コソボ情勢が刻々と報道されている。先の見えない無用な流血には賛同しかねる。今回の空爆が一刻も早く終結し、難民救済へむけて建設的な話し合いが始まることを望む。 政治的倫理的な是非はともかく、今回のユーゴ空爆には北大西洋条約機構(NATO)に加盟する複数の国家が参加している。本来、国益も文化も異なる国々が、コソボ解放という共通の大義名分のために力を貸し合っているのである。撃墜されたアメリカのステルス戦闘機はイタリアの基地から発進したという記事を読んで、思うところがあった。 しばらく前、イタリアで訓練飛行中のアメリカ軍パイロットが規定を無視した超低空飛行をして、スキー場にかかるロープウェイのケーブルを誤って切断、ゴンドラに乗っていた何十人というスキー客が墜落して亡くなるという事故があった。当然のことながら、イタリアの世論はごうごうたるアメリカ軍非難を展開。当事者であるパイロットの裁判がイタリア国内でなくアメリカで 行われることになったこともあって、両国の外交関係には亀裂が入ったかのように見えた。 しかし、コソボへの軍事介入が始まってからというもの、この話はきれいさっぱり陰を潜めた。同じNATO加盟国として、アメリカもイタリアも協力体制をとることが急務となり、事故の一件はとりあえず棚上げとなった形だ。 アメリカには「プロミス・キーパーズ」という、大規模な男性クリスチャンの集会がある。あるとき、うちの教会からプロミス・キーパーズの集会に参加してきたJ兄が、こんなことを言った。 「この集会に参加して、私は、自分の教会のM兄に対して、とても誤った見方をしていたことに気付かされました。」 M兄とは、70年代のヒッピーの生き残り分子みたいな人で、髪をぼうぼうに伸ばし、夏には他の男性信者たちがみなスーツやネクタイで来ている中、ひとりチャンチャンコにステテコみたいな格好で礼拝に来る。 「以前から私は、週1回神様の家に来る時くらい、この男はもう少しましな格好ができないのか、とM兄のことを苦々しく思っていました。しかし、皆さん、考えてもみてください。私たちはみな、霊的な戦いの前線にあって、敵であるサタンと戦う兵士です。戦場の前線にいる兵士が、ともに戦う仲間の服の趣味にけちをつけている暇があるでしょうか。もっと大切なのは団結して敵と戦うことではないでしょうか」 「神様はきっと、M兄が似たようなアイデンティを持つ人たちに届いていけるように備えているのかもしれない。(実際、M兄はそのような伝道活動に深く携わっている。)神様は、この集会を通して、『俺はあいつより聖い』という無意味なプライドを捨てなさい、と示して下さいました。」 このJ兄の証を聞いて、私はとても感銘を受けた。イエス・キリストが蘇られた今、私たちに求められていることは御霊による一致である。教派の違いとか、他のクリスチャンの信仰についてうんぬんして足をひっぱりあっている暇とエネルギーを、もっとお互いをたて上げるために、力をあわせてキリストの大義を実現するために、用いていきたいものである。 (ぼ)
(4/10/1999) 美しい壮大な自然の中に身をおくと、静かに、しかし力強く語りかけて下さる神様のご臨在を感じることができる。全ての創造主であられる神様の息吹が聞こえてくるかのように。 たとえばコロラドの高校での銃の乱射事件。ごく普通の新聞(シカゴトリビューン)の報道を通してでさえ、そこから読みとられてくるのは犯人の生徒たちの悪辣さよりも、このような悲劇の中からも希望を見い出し、お互いに支え合い励まし合いながら立ち上がろうとしているリトルトンの町の人々の姿だ。そしてそのような彼等の希望を支えているのが聖書の神への信仰であることがわかる。 町の人々が、犠牲者の家族が、学校関係者や、昨日のメモリアルサービスに参列したゴア副大統領まで、みんなが何度も聖書のみことばを口にし、神に向かって祈っている様子が報道されている。彼らが、全てを合い働かせて益と変えて下さることのできるお方、私たちの理解を越えた平安を与えることのできるお方である神様に、希望をおいていることがはっきりと記されているのだ。 このような恐怖と怒りと悲しみと混乱の最中においても、自分たちがどこに目を留めるべきかを知っているというのは何と幸いなことだろうか。 それにしても・・・ もっともっと若い世代のために祈ろう。 (4/26/1999) 昨日の昼は、大学の近くのレストランで神学部の教授ふたりと一緒にご飯を食べた。去年から学問と信仰について話し合う教授仲間のサークルに参加している。信仰といってもクリスチャンだけではなく、ユダヤ教の信者もいれば、イスラム教徒もいる。クリスチャンの中でもいろいろなタイプの人がいる。様々な宗教や教派から来ている他の先生たちが、自分の学問分野と信仰生活をどのように統合しているかは大いに興味があり、参考になるところだ。今回は小グループでの集まりで、この二人の先生に会うのは初めてだった。 初対面の人と宗教の話をするというのは、まさにその目的のために会うというお互いの合意の上であっても、いささかスリリングなものである。会うまではお互いの接点が全く明らかでなく、しかも昼ご飯を食べながらのわずか1時間の間に、一回完結で身のある会話をしなければならない。自己紹介をして、相手の一人は旧約聖書学者、もうひとりは黒人教会の歴史の専門家ということがわかった。これなら聖書をたたき台とした会話ができそうだ。まずは自然科学者としての聖書観という定番の質問に応え、逆にユダヤ人コミュニティー内での創世記第一章の解釈について尋ねる(クリスチャンコミュニティーと同様、歴史的変遷ののち現在いくつかの解釈が混在しているとのことだった)。話題はそれから聖書の文学性や、科学と神学の方法論、カオス理論の神学的意義など、一般的な興味にしばらく流れた。 相手のふたり(とくに旧約聖書の先生)と私の個人的な考え方の違いが次第にはっきりしてきたのは、注文のサンドイッチがテーブルに届けられてきた頃である。気象現象の観察を通じて神様の「報酬と罰(reward and punishment)」についてどう考えますか、という質問をされたので、ローマ書の8章19ー22節あたりをふまえて、台風や竜巻などの自然現象が人類に災害をもたらすのは、さかのぼってアダムの原罪に起因しているのではないかと思う、という主旨のことを言うと、「はあ、それは面白い神学だわね。初めて聞いたわ。」とびっくりされたようす。 さらに、世の中の諸悪がすべて私たち人間の責任というわけではなく、この世がサタンの支配下にある以上、不測の悲劇が起こるのは避け難いと思いますが、と私がいうと、彼女はしかめ面を作った。すかさず、黒人教会史の方の先生が「彼女は、サタンの実在を信じていないんだよ。」今度は私の方が驚く番だった。サタンはいない?じゃあヨブ記に出てくる告げ口屋は一体誰なんだ? しかし、質問しなおすまでもなく明らかになったことは、相手と私の考え方の違いは、サタンがいるかいないかという点にとどまらず、聖書全体に対する接し方の違いによるものであった。福音的な立場の私は、聖書の権威を土台とし、字義的な解釈を尊重する(それが適当である範囲で)。いっぽう、自由主義的な神学に基づく彼等は、聖書に書かれていることを学問の対象とし、文学的、考古学的に吟味していく。特に聖書の象徴的な意味を重視し、字義的な解釈にとらわれない。当然のことながら、両者の信じる教義には違いが出てくる。教会史の先生が言った。 「深く学ぶほど新しい発見が次々とあって、自分の信仰が改編されていくんだ。教会のセミナーなどに呼ばれていく時は、新しい視点を提供して、人々の凝り固まった『信仰』をゆさぶるのが僕の仕事さ。」 これに対しては質問を投げ返さずにはいられなかった。 「学びによって信仰が改編されるのはいいですが、これだけは変わることのない、信仰の核心部分っていうのがあるはずでしょう。聖書の権威まで含めて学問対象にしてしまったら、どこに信仰のよりどころがあるんですか。」 「そうそう、それなのよ、私の問題は。」と旧約の先生。「結局先生は何を信じているのですか、ってよく学生にきかれるわ。わからないのよ、正直なところ。」 時間切れでお開きとなったが、同じ聖書を学ぶ者にもいろいろな立場の人がいるのだなあ、と感慨深いものがあった。(きっとむこうもそう思ったに違いない。)驚くべきことは、このような違いを超えて、神様はすべての人を等しく愛してくださっていることである(聖書の字義的な解釈にもとづいています ^_^) 。 (ぼ) (4/29/1999) ![]() ![]()
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