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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] いろいろ人間関係について、というか、自分自身の人との関わり方について考えている。祈りつつ考え、考えつつ祈っていたら、こんな御言葉が示された。
聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動する・・・ 折しも、先ほど結城さんの日記(8/19/99)を読んでいたら、仕事をするとき「何を守るか」を考えるのは大事ですと書いておられるのを見つけた。結城さんが書いておられるものを読みながら、あぁこれ、人間関係全般にもあてはまっているかも、と思った。 人と関わっていくときに、私たちは多分いつも何かを守ろうとしながら関わっているんじゃないだろうか? 自分の立場や信用、面目、そして感情、あるいは相手の気持ちや相手の立場。二人の「関係」に関わっている第3者のこと、あるいは自分が属している何か・・・ どれを最優先させるべきで、どれを後回しにしてしまうのか。あちらを立てればこちらが立たず、結局何も守りきれずに「関係」は崩壊してしまったり・・・ このあたりの優先順位を見極める「鍵」が、もしかしたら上記の御言葉のなかにあるのかもしれない。 パウロは続けていう。
誰かと面と向かいあったとき、「私はこの人の喜びのために働く、この人の協力者なんだ!」もしもそう思えたなら、きっと私が関わるいろんな人たちとの関係が、もっとずっと素敵なものになるのじゃないかしら。 イエス様、私が、私のまわりの人の喜びのために働く協力者として彼らと関わっていくことが出来ますよう、どうか助けてください。 (8/20/1999) つい最近「The Visitation」(by Frank Peretti)という本を読んだ。 著者のフランク・ペレッティはクリスチャンのフィクション作家で、「A master of supermatural thrillers(超自然的スリラーの師)」と評され、クリスチャン/ノンクリスチャンを問わず人気があり、「The Visitation」は彼の最新作。 フィリップ・ヤンシーの「神に失望する時」やジェイムス・ドブソンの「When God doesn't make sense」(邦題忘れました)は日本のクリスチャンの間でもよく知られているノンフィクションの本だが、「The Visitation」は、いわばヤンシーやドブソンの本のテーマになっているような、クリスチャンが抱く信仰の苦悩をそのまま小説に表したようなものだと言えるかもしれない。 でもフィクションだからそれが素晴しく面白く脚色してある。主人公は、クリスチャンらしく生きるということに意味を見い出せなくなり引退してしまった中年の牧師。その牧師の住む田舎町に不思議な奇蹟を行う青年がやってきた。人々は彼こそイエス・キリストだと噂する。 しかし本当に彼はイエスなのか、それともサタンによって奇蹟を行う偽キリストなのか・・・ キリスト教界への風刺(特にペンテコステ/カリスマ系 ペレッティ自身もペンテコスタルなのだ)をビシバシきかせながら、クリスチャンなら誰もが一度は持ったことがあるだろうが、決して口には出来なかった思いを切り口あざやかに描いていく。そして、私たちが持ってしまいがちなどこかズレている神様への期待感や、それが裏切られたときに感じる苦味などを、いかにサタンが悪用して私たちの心、体、魂をズタズタに傷つけることが出来るか、鳥肌がたつまでにリアルに恐ろしく描く。 神様のリアリティとサタンのリアリティのぶつかりあい・・・ ちなみにペレッティの「This Present Darkness」と「Piercing the Darkness」も、ものすご〜く面白い。 前者は霊的戦いをテーマにしたフィクションで、後者は前者の続編でニューエイジをテーマにしている。 英語オーケーの方にはお勧めです。 (8/23/1999)
(8/25/1999) 数ヵ月前に、地下室の水回りの工事のために水道屋さんに来てもらったことがあった。 現われたのは40代後半とおぼしきおじさんと20代前半とおぼしき若者の二人組。いわば親方と弟子の関係だったのだろうか。 ところがこの親方ときたら、怒鳴ること怒鳴ること! 地下室に降りるドアをしめているから上にいる私には聞こえないと思ったのか、まぁものすごい勢いで、汚い言葉を使って青年をののしっているではないか! 青年が平坦な声で「怒鳴らなくても聞こえますよ。」「わかってますから怒鳴らないで下さい」と答えているのも聞こえてきた。 私に向かって怒鳴っているわけではないものの、何だかとても不快だった。二度とこの水道屋さんには世話になるまいと思った。 一方、数日前に、新しいキッチンに使うキャビネットを配達してくれたのも二人組。やはりボスと助手と見受けられた。大きくて重たいキャビネットを運びこむとき、このボスは助手に対して丁寧に声をかけ、適切な支持を与え、非常に手際がよかった。こういう人と一緒に仕事をしていたらさぞかし気持ちがいいだろうなぁと思わされた。あんまり感動したので、キャビネットのディーラーに「配達してくれた○○さんは、とても丁寧で手際もよく感心しました」と感謝の電話まで入れてしまった。 今、キッチンの改築に来て主な仕事をしているのも二人組の大工さん。ひとりはきちんと挨拶もしてくれるし頻繁に笑顔を見せてくれて気持ちがいいのだが、もうひとりはいつも苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。そういう顔をしているだけなら別にかまわないのだけれど、何だか妙に嫌味っぽかったり、何やら文句ばかりタラタラいっている様子。 ニコニコされればこちらもニコニコ出来るし、ブスっとされるとこちらもついブスっとしてしまうのが人情だから、せめて私はなるべくいつもにこやかでいたいものだなぁと思ったり… 英語にはこんな表現がある。「温度計ではなくサーモスタットになろう!」 温度計は回りの温度に合わせて自分も上がったり下がったりするけれど、サーモスタットは回りが暑ければそれ以上暑くならないように、回りが冷たければそれ以上冷たくならないように作用する。回りがカッカしていたらそれを静め、回りが落ち込んでいたら逆に励まし盛りたてることが出来るような、そんな存在になろう、という意味の表現だ。 イエス様もこのようにおっしゃられた。
ぐったりと疲れてソファに横になりながら、そんなことをポツポツと考えていた夏の終わりのある日の午後… (8/26/1999) 今日の礼拝メッセージのなかで、「聖め(sanctification/purification)」について語られた。 マタイによる福音書の21章12ー16節で、イエス様がエルサレムで宮に入って行かれたとき、本来「祈りの家」であるべきはずのところが、アコギな商売をしている商人や両替人によって強盗の巣とされているのを見たイエス様が、商売人たちのテーブルをひっくり返して追い出した様子が記述されている。 しかし、本来「祈りの家」であるべきところが、汚されてしまっているのはエルサレムの宮ばかりではない。 私たちひとりひとりの心の中もまた「聖霊様が住まわれる宮」(第一コリント3:16)なのだ。 イエス様はエルサレムの宮殿から強盗たちを追い出しそこを聖められたように、私たちの心の中もまた聖めることを望んでおられる。 ラリー・リー(Larry Lea) 牧師も、この聖書の箇所から同じようなことを教えておられるのを以前読んだことがある。 マタイ21:12-16をよく読むと気がつくことは、まずイエス様によって聖めの働き(Purification)がなされ(12節)、次にイエス様はその宮が「祈りの家」(Prayer)であるべきだと宣言され(13節)、さらにその後、宮では盲人や足なえが癒されるなどの神様の力ある御業がなされ(Power)(14節)、ついにはその宮では子供たちが「ダビデの子にホサナ」と賛美をする(Perfected Praise)、というように話しが進んでいる。 この「聖め」→「祈り」→「力」→「賛美」という順番の図式は、クリスチャン一人一人の霊的宮のなかで、また教会のなかで、実現されていくべき大切な神様の真理である、とリー牧師は述べていた。 で、今日の礼拝のメッセージに戻ると、ではその「聖め」はどのようにして得られるのか?ということだが、それは罪の告白と悔い改めによる(と牧師先生は言った)。 私たちはイエス様を救い主として受け入れたとき、罪を許され、「義」とされるものになったけれど、残念ながら救われたことにより自動的に完全に「聖なる者」とされたわけではなかった。ペテロも次ように言っていることからもそれがわかる。(第一ペテロ1:13-16)
自分の心のなか、また生活の領域のひとつひとつを吟味し、イエス様にふさわしくない部分があるならば、それを告白し悔い改めることにより聖霊様の御手にあけわたしていくこと… 「私はそれが何だかわかりません。知る必要もありません。でもあなたは自分でわかっているはずです。聖霊様はすでにそのことについて何度もあなたを取り扱おうとなさってきました。あなたもそのことについて何度か祈ってきたかもしれない。でもいつの間にかギブアップしていた… 今朝、神様はもう一度そのことについてあなたに語っておられるはずです。もう一度、主の前に出て、神様が望んでおられるのと同じくらいあなたもまたその問題を取り扱っていただきたいと願っているのだということを、主に意思表示しましょう。」 かなり大勢の人達が前に出てきた。私も出ていった。思い当たることがあったから… 今まで何度も何度も祈って、そして何度も何度も挫折して、何よ〜、神様なんか、ちっとも手伝って下さらないじゃないの! 私はこんなに悩み、改めようと努力してるのに! そう思って神様に悪態をついたこともあった。でも今朝、もう一度の神様の前に出ていった。 そして今夜ももう一度祈ろう。 イエス様・・・ 私の○○をあなたの前に告白します。 主よ、私がこの問題を克服できるよう、どうか助けてください。あなたに召されたものとして、あなたの御霊の住む宮として、ふさわしい者となれるよう、どうか私を聖め分かって下さい。あなたが聖であられるように、私もまた聖であることができますように・・・ (8/29/1999) 昨日の礼拝のとき、牧師婦人が特別賛美で歌っていた歌が、とても心に響いた。 歌詞の一部はこんなような感じ(うろ覚えだけど):
この歌の内容にいろいろ思いを巡らせていたら、7年前に、今私が住んでいるこの家を購入した時のことを思い出した。 ぼぼるパパのシカゴ大学での就職が決まり、少なくとも7年間はシカゴに絶対とどまるのだから、この際思いきって家を買おうか、そんな話しになり、私もぼぼるパパも初めてのマイホーム購入計画に夢がどんどん膨らんだ。特に私はいろんな本や雑誌を買い集め、どんな家がいいかな、購入の手順はどうなるのかな、などと、朝から晩まで自分の大学院での勉強に身が入らなくなるほど、夢中になって考えていた。 大学から不動産屋さんを紹介してもらい、5月に下見に行き早速これは、という家を見つけ、手付け金のようなものとして5000ドルを払い、30年の住宅ローンを申し込んだ。 不動産屋さんは「大丈夫、ローンはすぐおりますよ」と太鼓判を押してくれたものの、1ヵ月たっても2ヵ月たっても一向にローンがおりる気配がなかった。当時の私たちはまだ就労ビザ(私は学生ビザ)でアメリカに滞在しているだけの外国人だったし、シカゴ大学での勤務も始まっていなかったので、ローン会社の方も、貸し渋ったのかもしれない。いろいろな書類にサインをして売買を成立させる予定の日は8月1日だったが、直前になってもまだローンはおりなかった。このままでは家は買えない。払った手付け金も戻ってはこない。 私もぼぼるパパも真っ青だった。 「もしかしたら、今私たちが家を買うことは、神様の御心じゃないのかもしれない・・・」 思い返してみると、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(第一ヨハネ2:16)」というものにすっかり心が囚われていて、神様のことが置き去りになっていたことに気付かされた。私は身震いした。 「嫌だ! 神様の御心でないものなら欲しくない! 神様の御旨に逆らって自分の欲を通すようなことはしたくない!」 ぼぼるパパと手を取り合ってプリンストンのおんぼろアパートのリビングに膝まづいてこう祈ったのが忘れられない。 「主よ、あなたの御心にかなわないものでしたら、私たちはこの家はいりません。どうか私たちから取り去ってください。あなたに祈りあなたの御心を求めないままこのように話しを進めてしまっていたことを、どうかお許しください。主よ、私たちがこれ以上、肉の欲に溺れてむさぼることがありませんように。私たちから余計なものは取り上げてください。」 7月30日、シカゴで家の売り手に会うためにプリンストンを出発した。まだローンは下りていなかった。もう家は買えないものと覚悟していた。 7月31日、シカゴへの途中から不動産屋に電話をいれてみた。 そしたら!なんと締切の前日になってついにローンが下りたと聞かされた。 「主よ、本当にいいのですか?」 私もぼぼるパパも、もはやそれまでのような「わ〜い、家だ!マイホームだぁ〜!」と浮かれるような気持ちはすっかりなくなり、ただただ神様への畏敬の念で一杯だった。 8月1日、ことはすべてスムーズに進み、無事商談は成立した。私たちはこの家の持ち主となったのだった。 実際に引っ越してきたのは8月20日頃だったが、夏の日の夕暮れ、空っぽの家の中に入ってきたとき、ぼぼるパパと二人でまず最初にこう祈った。 私たちにはその後「聖徒の入り用に協力し、旅人をもてなしなさい」(ローマ12:13)という御言葉が与えられ、実際数え切れないくらい多くの方々が私たちの家を訪れ泊まっていってくださった。3年に一回もたれる、イリノイ州アーバナでの学生宣教大会の前後には、いつもわが家は宿泊者で合宿状態だったし、まったく見ず知らずの方を、「友達の友達の」紹介で泊まっていってもらったことも少なくない。 本当に主は私たちを豊かに祝福してくださった・・・ ところが。今はどうだろう? 子供の数がふえ、自分の生活で手一杯になってくるに従い、初心がどこかにとんでいってしまったようだ。 そして現在進行中のキッチンの改築。これはまさに「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」のカムバックではないだろうか? 心がズキズキと痛む。 神様、でも、改築、もう始めちゃいましたよ・・・ 私の希望も、私の夢もすべて、 今さら祈っても遅いのかもしれない。でも祈らずにはおれない。気付かされたのなら、やはり今からでも祈るしかない。 本当ならキッチンの改築だなんてこんなにも世的なことではなく、もっと高尚なことを「神様に委ねます」といいたいところなんだけど、なにしろ今キッチンはすごい状態なので、私の心はすっかりキッチンに奪われていたのだった・・・ 主よ、私の心を、魂を、生活を、あなたの御国で満たしてください。 (9/6/1999) ![]() ![]()
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