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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 2ヶ月ほど前、知人(そんなに親しく知っているわけでもないのだけれど)が結婚式を3ヶ月後に控え、婚約者の方を交通事故で亡くされた。しかもそれは婚約者の方の誕生日の前日だったそうだ。 二人とも、クリスチャンである。 クリスチャンなら、死んでも天国でまた会えるのだから、希望をもって元気にやっているかといえば、もちろんそんなことはない。身近な人を亡くせば悲しいのは当然のこと、ましてやそれが婚約者となればなおさらだ。クリスチャンでも例外ではない。 その彼女からメールが来た。回りの人たちは、彼がいなくなった悲しみからそれぞれに立ち直りつつあり着実に前進しているのに、自分だけがまだ悲しみのどん底にある。クリスチャンなのに、なぜすぐに立ち直れないのか、苛立ちと孤独の波に押しつぶされそうになる・・・ 彼女の正直な今の気持ちが書きしたためられていた。 しかし、その悲しみと苦しみと孤独の中にあっても、なお、彼女の目が十字架を見つめているのがはっきりとわかるメールだった。自分が感じている喪失感、痛み、悲しみ、そのようなものをいたずらに否定し忘れようとするのでなく、その痛みをしっかりと受け止めてからそれを十字架にバトンタッチしようとしている彼女の姿が伺えた。 彼女はまだ自分では光が見えない、出口のない暗闇の中にいるようだと言っているけれど、 ある日きっと、暗闇の中にいるとばかり思っていたら、実はまばゆいばかりの栄光に満ちた神様の愛のなかにいたのだと、気付く時が来るに違いないと思う。 その時まで、私も彼女のために祈ろう。 (3/27/2000) しばらく前にのこちゃんが日記で天国について語っていたけれど、夕べの聖研でも天国の話題が出た。 真珠の門だとか純金で出来た大通りだとか、聖書に記述されている天国って、ちょっと私の理解を遥かに越えている。 のこちゃんも悩んでいたけど、実際考えれば考えるほど、天国に行くと、私たちは一体どうなるの!? という疑問がどうしても頭をかすめる。 特に私が気になるのは、天国に行くと、私はもうぼぼるパパとは夫婦でなくなってしまうということ。天国に行くと私たちはみんな「御使いのように」なって、男も女もなくなってしまう。当然夫婦という単位もなくなる。(だから結婚の誓いは「死が二人を分かつまで」のものなんだねー。)じゃあ親子の関係はどうなんだろう? 天国では私はもうエミやみんやま〜やとは親子じゃなくなっちゃうの? それってなんかすっごく悲しい。 愛する人と死に別れたとき、クリスチャンはみんな「天国で再会できるから」と言うけれど、でももはや夫婦でも親子でもなくなっているなら、再会したってしょうがないような気がしてしまうのは私だけ・・・? 「そうよね! 聖書を読んでいても、天国のどこがそんなに素晴らしいのかよくわからないわ。」私がブツブツ言っていると、追い討ちをかけるかようにバーバラも言う。 「聖書はね、この世に生きている間の私たちにとって必要なことが書かれている書物なのであって、必ずしもその後の世界、つまり天国について詳しい説明を与えるためのものではないのよ。」ゲイルが答えた。 「小さな子供って、どうってことない単純なおもちゃでもいつまでも飽きることなく遊んでいたりするだろう? 親がもっといいおもちゃを買い与えようとしても、慣れ親しんだ古いおもちゃにしがみついて、新しいのはイヤだなんて言って泣いたりすることがあるだろう?それと同じなんじゃないかと思うよ。今の僕たちには天国の素晴らしさは到底理解出来ないかもしれないけれど、神様がずっと素晴らしいものだと言って僕達のために用意して下さっているものが、どうってことないものであるはずがないじゃないか。 Don't worry. You will not be disappointed. 大丈夫、絶対にがっかりしないから。」 最後の一言、 You will not be disappointed が妙に胸にずっしり響いた。やけに説得力をもって、私の心に迫った。 そう、以前こんなことがあった。 一昨年の夏、ディズニーランドに行く計画を立てていた時、ディズニーランドが何たるかを知らなかったエミは「それどこにあるの? 遠いの? 遠いところには行きたくない! お家にいようよ!」とゴネたのだった。私によく似た出無精の子で、遠出が大嫌いなのだ。 「何言ってんのよ、ディズニーランドよ! ディズニーランドに行きたくない子供なんて聞いたことないわっ! 行けばきっと大好きになるよ。楽しいところなのよ。あれがあって、これがあって・・・ きっともうお家に帰りたくないって言い出すくらい、好きになるよ!」 なかなか承知しないエミに、ディズニーランドのウェブサイトを見せてようやく納得させたのだった。そしてディズニーランドの最終日には、案の定エミは「帰りたくない」といってゴネたのよね。 何だか卑近なたとえで恐縮だけど、天国はエミにとってのディズニーランドよりも、遥かに素晴らしいところなんだろうな・・・ (4/1/2000) 4月23日は復活祭だ。蘇りのイエス様の命が私のなかで生きるためには、私もまた十字架に死ななくてはならない。 でも、私ったらまるで半殺しにあったゾンビのようで、古い死んだはずの「自分」が無気味に蘇っては私を支配する。 今月のように忙しくてストレスがたまりやすい時は、なおさら私のなかのゾンビの活動が活発になりやすいので、しっかりガードしておかなくちゃ。 (4/8/2000) 夕食の支度をしていたら、みんが突然聞いた。 「Mommy, what is "sin"? (ママ、『罪』ってなあに?)」 何を突然・・・と思いつつも、包丁を動かす手をとめて、みんに向き直って私は言った。 「Well, "sin" is.... something that keeps you away from God. It is something God cannot tolerate. Something that often looks attractive to your eyes, but destructive to your life. Do you understand?」(罪とはね、あなたを神様から引き離してしまうもの。神様が決して我慢できないもので、私たちの目にはいかにも魅力的に見えるけれど、私たちのいのちにとってはとても破壊的なものなのよ。 わかる?) 「No.」 「Well, "sin" is.... something bad. And you will know when you sin, because you have the Holy Spirit living in you.」(う〜ん、罪っていうのはね、悪いものよ。そして、あなたが罪を犯したら、ちゃんと自分でわかるのよ。なぜならあなたのなかには聖霊様が住んでくださっているのだから。) 「Oh, okay!」 「Why did you ask?」 「I don't know!」 そしてみんはくるりと向きを変えて走っていった。 (4/19/2000) 今日で怒濤の4月も終わり。 今月は何だかいろいろなことがあった。 気持ちの中で複雑すぎて、ちょっと簡単には日記にも書けそうもない。物理的な忙しさ以上に、精神的にパニックしていた気がする。 加えて、この時期は毎年そうなんだけど、花粉症なのか何なのか咳が止まらなくなる。終始咳をしているのは結構体力を使ううえに、薬のせいで食欲ががっくり落ちて、この2週間あまり、ろくに食事が喉を通っていない。 感謝なことに、こういうときは普段以上に神様が近くに感じられる。 新しい働きを始めたせいか、今月は思わぬカウンターアタックに合い、かなりうろたえた。今まで自分の二本足で立っていたのが、強烈なブローを見舞われてヨロリと膝をついてしまった感じ。その状態で目が回りながら立ち上がろうとすると、神様がおっしゃった。 「Stay on your knees. (ひざまずいたままでいなさい)」 そして私のうえに、ふわりと大きな御翼が広げられる。 しかし強情な私はそれでも立ち上がろうとする。今度はつんのめって、御翼の影から飛び出してしまいそうになる。 「Stay on your knees. Don't you dare to think you can walk on your own.(ひざまずいたままでいなさい。自分の足で歩けるなんて思っちゃいけない。)」 今ほど、こんなにも自分が神様の前にふさわしくない存在であることを思い知らされたことはない気がする。 こんなにもふさわしくない私を、なおも神様は守り慈しんで下さっている・・・ 今朝の礼拝で、牧師がこんなことを言われた。 「If you don't humble youself before God, your life will humble you.」 自分から神様の前にへりくだることをしないのであれば、いずれ否が応にも回りの状況によってへりくだらざるを得なくなる、ということか。 全くその通りだ。 (4/30/2000) 4/30の日記を読んで心配してくださった皆様、ご心配おかけしてすみません。はちこは大丈夫です。 何か、とても貴重な体験をさせられているとでもいうのでしょうか、「砕かれる」って、こういうことなのかな、と思わされています。これが「砕かれる」ということならば、私は20年余りの信仰生活のなかで、砕かれる体験をしたことがなかったのかもしれないとまで思わされています。自分の弱さを思い知らされ、とてつもなくみじめなのですが、責めたてられるようなGuilt(罪責感)とは違うのです。 Humilityと言うのでしょうか。 イエス様の義が、私の罪と入れ替わってくださった・・・ そのイエス様のご栄光の重みを身体に感じる思いです。 ただ、主の御名を賛美いたします。 (5/1/2000)
これを私の上に成就してくださいと祈る。 (5/3/2000) 某掲示板でのはちこの投稿より: バスジャック事件といい、豊川の事件といい、胸の痛む青少年の犯罪が最近たて続けに起きていますね。 私たちの子供たちも、これから中学生、高校生へと成長して行きますが、親として、今後どうやって指導し、躾けていったらいいのか、私も不安な思いです。 うちの子供たちは9歳、もうすぐ6歳、2歳の三人ですが、今はまだ、基本的に私と主人のコントロールのもとにいます。 でも、大きくなるにつれて、まず物理的に私たちから離れていく時間が増え、さらに精神的にも離れて行くわけですよね。もちろん、そうでなくては困るのですが、子供たちを巣立たせるまでに、今、私に出来ること、すべきことは何だろうと、常に考えています。 私がうちの娘たちに伝えたいこと、教えたいことは山程ありますが (^_^;; その中でも一番わかって欲しいことは、 オフラインでも、オンラインでも、いろいろな方たちとお話していてよく気付かされるのは、自分がどれだけ愛されていて、どれだけ価値のある存在であるのかわかっていない人が多いようだということなんです。ですから、ただ愛するだけではなく、自分は愛されていると彼女たちにわからせること、それが大切だと思っています。私は少なくとも自分の子供には、そして出来る限り回りの子供たちにも、彼らが、彼女たちが、どんなに尊い存在であるのか、言葉で、また態度で示したいといつも思わされています。 例えば子供たちが何か悪いことをしたとします。彼女たちが何をしたとしても、最終的には私は許します。でもそれは彼女たちが自分の言動が引き起こした結果の責任を取らずにすむという意味ではありません。何かふさわしくないことをするなら、必ず何らかの形で責任を取るなり、罰を受けるなり、痛みを伴うなりするのだということを、小さいうちからしっかり教えたいと思っています。 今の世の中、誰もが責任のなすり付け合いをしているように感じます。子供は大人を責め、大人は社会のせいにし、親は学校を責め、学校は親の責任だと言う。警察が悪い、政治家がなってない、役人こそ諸悪の根源だ・・・みんな我こそが被害者であるかのようにふるまい、自分の言動に対する責任は自分にあるのだとは思っていないかのようです。カウンセラーや心理学者までもが「あなたのその問題は、あなたの過去のトラウマにあるのですよ」と言います。悪いのは私ではない、過去に私にこんなトラウマを与えた人が悪い、出来事が悪い、環境が悪い・・・ でも、忘れてはいけないのは、私たちは一人一人、自分で考え自分で決断する意思を持った存在であるということです。 回りが悪ければ、自分は何をしてもかまわないというものではないはずです。 そのことを、小さいうちからはっきりと子供たちに教えたいと思っています。 (5/5/2000) ![]() ![]()
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