ホーム信仰、希望、愛p. 21

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

[ p.1 | p.2 | p.3 | p.4 | p.5 | p.6 | p.7 | p.8 | p.9 | p.10 | p.11 | p.12 | p.13 | p.14 | p.15 | p.16 | p.17 | p.18 | p.19 | p.20 ]


[ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ]

私が好きな賛美の歌に「永遠の愛」というのがある。エレミヤ書31:3、4からとった歌でこんな感じ。

「永遠の愛をもって わたしはあなたを愛した
 それゆえ わたしはあなたに誠実を 尽くし続けた
 おとめイスラエルよ わたしはあなたを
 あなたを建て直し あなたは建て直される・・・」

このところずっと、私は神様は「回復させてくださる神(God of Restoration)」であるということについて考えていた。

今夜も、時差ボケで眠れない頭で、この御言葉に思いを巡らせつつ祈っていた。

そのとき、ふと、ここで神様がイスラエルのことを「おとめイスラエル」と呼び掛けていることに気がついた。「おとめイスラエル(a virgin of Israel)」とは旧約聖書でイスラエルを指す時の決まり文句じゃん、といえばそれまでだが、それにしたってやっぱり何かすごいものがある気がする。旧約聖書ではイスラエルの国は神の花嫁として例えられているが、花嫁であるからには当然「処女」でなければ困る。ところがイスラエルときたら、近隣諸国の異教の神々に次から次へと身を任せてしまったとんでもない姦淫の女だったのだ。 実際、エレミヤ書の先の部分ではイスラエルは多くの愛人と淫行をおこなった「背信の女イスラエル」と呼ばれている。神様はイスラエルの背信をどれだけ嘆き悲しんでおられたことか!

しかし、神様は「回復させてくださる神」であると同時に「追いかける神」でもあられるのだなぁ。神様はイスラエルを去らせたままにはしておかなかった。

「背信の女イスラエル。帰れ。
 わたしはあなたがたをしからない。
 わたしは恵み深いから。
 わたしは、いつまでも怒ってはいない。・・・ 
 背信の子らよ、帰れ。--主の御告げ--
 わたしが、あなたがたの夫になるからだ。」(エレミヤ書3:12、14)

汚れに汚れたイスラエルでありながら、なおも神様は彼女を「おとめ」と呼び、御腕に堅く抱き締めんとされているのだ。みずからの聖い御手で彼女を癒し、建て直さんとされるのだ。

聖書を開いてこれらの御言葉を祈りつつ読んでいたとき、神様が私のことも「おとめ はちこよ」と呼んでおられることに気がついた。

・・・私は一体いつまで逃げるつもりだったのだろう。

神様は、今、泣きながら私のことを追いかけて来て下さっているではないか。なぜ私は神様の御手を振り払おうとしていたのか。同じ失敗、新しい失敗、次から次へと繰り返す私を、いつまでたってもちっとも聖くならない私を、神様は「おとめ」と呼んで愛し、追いかけてきてくださっているのに。

永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
おとめイスラエル(はちこ)よ。
わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。

                            (8/7/2000)

日本で「だから、あなたも生きぬいて」(大平光代著 講談社)という本を買ってきた。ベストセラーだったらしく、どの書店でも店頭に平積みになっていたので、つい買ってしまったのだ。

大変衝撃的で、素晴らしく励まされる本だった。
  
中学生の頃、いじめに合い割腹自殺をはかるが死にきれず、その後さらにひどいいじめを受け、堕ちるところまで堕ちていった光代さん・・・

その後、ある人に励まされ人生をやり直す決心をし、努力の末、中卒であったにもかかわらず一発で司法試験に合格、現在は弁護士として少年鑑別所などを訪問しながらかつての自分と同じように道を踏み外した青少年たちと向き合っている・・・

なぜ彼女はこんなふうに180度の大転換をすることが出来たのか?

この本の132ページにこういうくだりがある。

「そんなある日、喫茶店でコーヒーを飲みながら、大平さんがいつものとおり、いろいろと話しをしてくれていた。その途中、私は、『今さら立ち直れったって、なにを寝言言うてんねん。口先だけで説教するのはやめてくれ。そんなに立ち直れって言うんやったら、私を中学生の頃に戻してくれ。』と言ってしまった。それを聞いた大平さんは、このとき、はじめて大声をあげた。『確かにあんたが道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う。親も周囲も悪かったやろう。でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、あんたのせいやで、甘えるな!』・・・」 (太字はちこ)

そしてさらにその数ページ先にはこのようにあった。

「<思いどおりにならへんのを、お母ちゃんのせいばかりにしてたなぁ。そもそも自殺未遂をしたんかて、自分が弱かったからや。なんぼいじめられても、じっと耐えて頑張る子もおる。将来の目標に向かって頑張る子もおる。道を踏み外したんかてそうや、その道を自分で選んだんやわ。誰のせいでもあらへん。みんな自分が悪いんやわ・・・>私は、これまで他人の責任にばかりしていた自分を恥じた。そして、<これが最後のチャンスかもしれへん。最後のチャンスかも・・・ もう一度やり直してみよう>と決心した。この時二十二歳。あり地獄に自ら落ちた私の目の前に、一本のロープが投げ込まれた。私は、それをしっかりとつかんだ。そして、過去のすべてを断ち切った。」(太字はちこ)

確かに私たちはみな、多かれ少なかれ、まわりの影響を受ける。家庭や友達や社会・・・ 不可抗力で、自分ではコントロールしきれないことも多々あるだろう。

しかし、今「わたし」がここでこうしているのは、他でもない、自分自身の今までの「選択」の積み重ねによるのだ。

光代さんはその事に気が付いた。ここまで堕ちてしまったのが自分の選択のせいであったなら、ここから立ち直ることもまた、自分の選択によって可能なはずだ、と。

でも、私にはそんなに強い精神力はない、光代さんには大平さんのような人がいて、そばで励ましてくれたからいいけど、私にはそういう人もいない・・・ もしもそう思う人がいるのなら、是非こちらの本も読んでみて欲しい。

刺青クリスチャン」(ミッション・バラバ著 早稲田出版)

これは元ヤクザの面々が、イエス様と出会い、ヤクザから足を洗って人生をやり直すまでの体験談を集めたもの。「親分はイエス様」というタイトルで映画化も決まり、11月には公開予定だ。(キネマ東京 監督:斉藤耕一、主演:渡瀬恒彦、渡辺裕之、ガッツ石松、他)

「人生はやり直せる」・・・ もしもあなたが今、このメッセージを必要としているなら、是非この二冊の本を読んでみてください。

(8/26/2000)

今日、エミ(9歳)が洗礼(水のバプテスマ)を受けた。

クリスチャンホームに育った子にはよくあることだが、エミにとって、神様/イエス様/聖霊様というのはきわめて身近な存在で、いるかいないかとか、信じるか信じないかとか疑う余地もなくここまできたのだろうと思う。それはちょうど、滅多に会うことはないけれど、日本に帰ればおじいちゃんやおばあちゃんという、自分をとてつもなく愛してくれている近い親戚がいるということを知っているのと似ているかもしれない。

それでも、エミが意識してイエス様を自分の救い主として受け入れる決心をしたのは、二年前の11月のことだった。教会で「Heaven's Gate, Hell's Flames」という伝道的な芝居を上演したときだ。エミなりに、自分の意志で、「イエス様を受け入れます」と選び取りをし、私と二人で祈ったのだった。

その後洗礼を受ける機会は何度となくあったし、イエス様を救い主として受け入れたのだからすぐにでも受洗してよかったのだとは思うが、牧師さんは「洗礼」の意味を理解出来るようになるまで、もう少し待った方がいいかもしれないよ、というのでエミの様子をみながら待っていた。

エミには水のバプテスマについて次のように説明した。

水のなかに全身を浸すことは、十字架にかけられて死なれたイエス様と共にそれまでの古い自分に死ぬことを、そして水の中から出てくることは、蘇られたイエス様と共に生きるようになることを意味しているんだよ・・・ そして私はすでにそのような決心をしましたということを、公の場で宣言し、証しすることなんだよ・・・

まぁ、エミの年齢で「それまでの古い自分に死ぬ」ということがどのようなことなのか理解するのは難しいかもしれない。大人にだって難しいもの。信仰生活を送っていくなかで何度も何度も、あぁ私はこんなにも罪深い者だった、その罪のためにイエス様が十字架にかかって死なれ、私もすでにイエス様とともに古い自分を葬っているのだ、だからこんなに罪深い者でも、その罪はすでに赦されているのだ・・・ 折りにふれて思い知らされ、自覚し、そのたびに新たにイエス様に感謝し、一歩一歩成長させていただくのだから。

エミは洗礼を受けるにあたって、とても喜び、興奮していた。私もぼぼるパパも、もちろん嬉しかった。 カメラとビデオとバスタオルを持って、右往左往していた。(笑)
でも、ここで私たちの役目が終わるわけではない。これからもエミのために祈り続けなくては。本格的な歩みは、これから始まるのだから。

---以下は余談---

ところで、人は洗礼(水のバプテスマ)を受けることによってクリスチャンになるのではない。すでにイエス様を救い主として、主として受け入れ、イエス様の教えに従っていく決心をしてクリスチャンになっている人がその証として洗礼を受けるのだ。

また、洗礼を受けることはイエス様の命令でもある。(マタイの福音書28章19-20節)聖書のこととかイエス様の教えについて、たとえまだよく知らなくても、自分の暮らしぶりが「イエス様の弟子」として、まだちっともふさわしくないように思えたとしても、一旦イエス様を受け入れる決心をしたのなら、イエス様への従順からも、水のバプテスマは受けるべきものだし、受けてかまわないのだと思う。

*もしも今、あなたが洗礼を受けようかどうしようか迷っているとしたら、あなたが自分自身に問うべきことはただ一つです。あなたはイエス様を自分の救い主として、主(Lord)として、受け入れていますか? あなたの答えがYESであるなら、洗礼を受けることに関して迷うことはありません。是非洗礼を受けてください。それがイエス様御自身も望んでおられることです。 NOであるなら、洗礼は今はまだ待ってください。そして、あなたにとってイエス様はどのようなお方であるのか、何をして下さったのか、イエス様御自身があなたに示して下さるよう祈ってみてはいかがでしょう? それがわかった時あなたもきっと迷わずイエス様を救い主として受け入れることが出来るでしょう。その時にこそ、感謝と喜びをもって、洗礼を受けよう!と思えることでしょう。

祈りつつ・・・

(8/27/2000)

また「おっ!」と思うクリスチャンサイトを見つけた。

北 謙治さんという青年がやっておられるHP。 なかでも、「S.E.X.」というコーナーは素晴らしい。こういう話しって、案外教会のなかでは教えられていないような気がする。暗黙のうちに、結婚まではしないのが当たり前だよねぇ、くらいに思っているだけで、あまり突っ込んだ話しは誰も聞いたことがないのでは? クリスチャンであるなしにかかわらず、中学生くらいからまだ結婚前の人に、是非読んでいただきたい。

北 謙治さんのホームページ

                                 (8/28/2000)

昨日の礼拝でだったか、日曜学校でだったか、うちの牧師がこう言っていた。

「何事においても『私にも出来るのだから、誰にでも出来ます!』というような言い方は、しない方がいいでしょう。なぜなら、それは真実ではないからです。神様は人それぞれに異なるタラントをお与えになったのですから、あなたに出来ることが他の人にも出来るとは限らないし、他の人に出来ることがあなたにも出来るとは限らないのです。」

「私にも出来るのだから(出来たのだから)、誰にでも出来ます、あなたにも出来ますよ」という言い方は、大抵の場合誰かを励ますつもりで言うものだと思う。ところが、現実には言われた相手にとっては負担でしかないことも少なくないかもしれない。

もちろん、「私には出来るけど、あなたに出来るとは限らないわね」と正面きって言ってしまったら、それも随分鼻持ちならないとは思うけど。

どういう文脈で牧師さんはこんなことを言ったんだっけ。あまり覚えていない。f(^_^;;

ただ、励ますつもりで言った言葉が逆に負担を与えてしまうということは、わりとよくあることのような気がして、これは気をつけた方がいいな、と思ったのだ。

そういえば、つい最近あるお友達が、「頑張る」という言葉はもともと「眼張る」と書き、つまり眼をカッと見開いて力を込めるというような意味で、自分に対して喝を入れるための言葉であり、本来他者に向かって言う言葉ではなかったらしい、というようなことを教えてくれた。確かに「頑張れ!」というのも、言われた時負担を感じる言葉の代表格かもしれない。

その点、英語だと「頑張れ!」のかわりに「Take it easy!」とか「Hang in there!」とか「Good luck!」などという言い方をする。「頑張れ」とは正反対だ。これもお国柄、国民性なのか。 まぁ、「You can do it!」や「Go for it!」といった積極的な声援の言葉もあるにはあるけれども。

私の好きな英語での励まし(?)の表現にこんなのがある。

Let go, and let God.」 自分で頑張るのでなく、委ねて神様にやっていただきなさい、というような意味だ。

「Let go」というのは文字どおりには「手を放す」という意味。眼をカッと見開いて力をこめて何かをしている時に手を放すのは容易なことじゃない。力を込めている時には普通手を握りしめているものだから。

「Let go, and let God.」

その時にこそ、ピリピ4章13節の御言葉が生きてくるのかな。

(9/4/2000)

今日は日曜学校と礼拝。日曜学校では新しく「御霊の賜物」についての学びが始まった。賜物についていろいろ語られるなかで、牧師さんが

「But, character (who you are) is more important than ministry (what you do).」

と言ったのがとても印象に残った。characterというのは人格とか品性とか人柄とか。主の前にはどんな働きをするかということよりも、どういう人であるか、ということの方がずっと大切、ということ。 そうだよね。どんなに立派な働きをしていても、その心の中が高慢や妬みや苦味のようなものでいっぱいだったら、神様は喜ばれないし、結局はその人が属するキリストの身体(=教会)にとっても益にならないものね。

*****

先日「神様の絵の具」(いのちのことば社)という本を読んだが、これが素晴らしい本だった。 33歳で発癌した能登一郎牧師が36歳で天に召されるまでに残したメッセージのいくつかを収めた本で、いわゆる闘病記録ともちょっと違い、ただただ素晴らしい。騙されたと思って、皆さんにも是非一度読んでいただきたい。

よく末期ガンの死を「壮絶な」と表現するのを聞くけれど、能登牧師の最後もやはり壮絶だったようだ。最後の最後まで激しい痛みと呼吸困難に襲われ、その中で「これで良かったんだ。俺の人生、最高だった」と言いながら召されていったという。たった36歳の若さで、奥さんと5歳の娘さんを後に残して死にゆく時、なぜ彼は「これで良かったんだ。俺の人生、最高だった」と言えたのだろう・・・? 本を読むとわかると思う。

                                (9/10/2000)

教会での水曜日の聖研は、今週からローマ書の学びが始まった。すごく面白い。

パウロが自分のことを「使徒」と呼んでいることに関して解説があったあと(「使徒」というのは、狭義では12使徒を指すだけに限られているので)、ガラテヤ書の1:1に言及しつつ、自分の召命の範囲内でのみ務めをすることの大切さが語られた。

その召しが神様から来ている限りは、その働きのために私たちを整えることは神様ご自身がなさってくださるし、同時にその働きを遂行するために必要な権威も神様が与えて下さる。しかし、私たちが召命の範囲の外に出てしまうなら、それは結局自分の力でやっていることになり、神様からのバックアップがなくなってしまうのだ。

もっともこれは今日の学びの一番最後に牧師先生がチョロっとおっしゃったことだったのだけど、とても印象に残った。 今一度、私は何の働きに召されているのか、祈り直してみようと思わされた。

(9/13/2000)

先日、みんが食事中にふっとため息をついた。

おなかが一杯になってきて食べるのが嫌になっちゃったのかと思い、「もう少しなんだから頑張りなさいよ」と声をかけると、「Noooo, not that!(そうじゃないの!)」という。

じゃあどうしたのよ、とわけを聞くと、何でも、学校でリサと仲良くしていると、いつもチェルシーが横はいりしてきてみんからリサを取ってしまうのだそうだ。

他にも、仲良しなので同じクラスになってよかったと喜んでいたパティやブリジットとも喧嘩になることが少なくないらしい。みんは早生まれのせいか、ボス格のお友達にはいつも負けてしまい、悔しい思いをしていることが多いみたいだ。

そういえば、エミも小学校1、2年生の頃は友達関係でいろいろトラブルもあって、私も随分祈らされたものだったっけ。みんのためにももっともっと祈らなくちゃ。最近、自分のことばかりでいっぱいだったしなぁ・・・ 反省。

朝、子供たちを学校に送り届けてから、ひとりキッチンで祈った。
  
「主なる神様、あなたの霊が、娘たちの行くところどこへでも共に行って下さいますように。あなたの御国は御霊による義と平安と喜びです。聖霊様が娘達を一瞬一瞬満たしてくださり、授業中でも、校庭で遊んでいるときでも、いつでも彼女たちが神様の御国に留まることができますように! 神様、学校にはいろんなお友達がいます。いろんなトラブルが起きます。不愉快なこと、悲しいこともあるでしょう。そのようななかにあっても、子供たちが、あなたの御言葉の通り、真実なこと、誉れあること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいこと、徳と言われること、称賛に値することを見つけて、それらのものに心を留めることが出来ますように。たとえ誰かの悪意が彼女たちを傷つけようとしても、逆にあなたからの愛と義と平安に満たされて、善をもってそれらのチャレンジに打ち勝つことが出来ますように。・・・」

                                  (9/14/2000)


ご感想などございましたら是非メールを下さい。
はちこは喜びます!



リンク、転載、配付、引用及び免責事項について
(c) 2000,2003 Sachi Nakamura

このページへのリンクは御自由にどうぞ。
http://nakamurafamily.net/faith/index.html