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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 先週の水曜日だったか、教会でこんな証しを聞いた。 スリランカのアッセンブリー教団のgeneral superintendant (日本語で何て言うんだろう?要するにトップの人)の奥さんが病気だか事故だかで入院していた。入院中に容態が悪化し昏睡状態に陥り、まわりでは大勢の人が祈っていたが一週間以上意識がもどらなかった。ついに夫はもはや諦めるしかないと思い、「妻をあなたの手にreleaseします、いつでもあなたの時に、あなたのもとへお取り下さい」と祈ったそうだ。するとその時神様は「あなたはわたしの主権を侵している。あなたはわたしがあなたに啓示したことにさえ忠実であればそれでいいのだ」とおっしゃって、彼をrebukeした(叱った)のだそうだ。そこで彼はあわてて悔い改めて、再び癒しを求めて祈ったところ、奥さんはすぐに意識を取り戻し、話しも出来るようになったのだとか。 私はこの証しを聞いて、何かとても驚いた。奥さんが癒されたから驚いたのではない。神様は癒すことの出来るお方であることは十分わかっているから、そんなことでは驚かない。「妻をあなたの手にreleaseします、いつでもあなたの時に、あなたのもとへお取り下さい」という祈りに対して、神様が「あなたはわたしの主権を侵している」と言って叱った、という部分に驚いたのだ。 私の目には(耳には?)「妻をあなたの手にreleaseします、いつでもあなたの時に、あなたのもとへお取り下さい」という祈りは、確固たる信仰がなくてはとても祈れないことのように思える。そもそも、誰が好きこのんで、自分の妻がいつ死んでもいい、なんて思うだろうか? 私たちの人生のうえにおける神様の主権を認めればこそ、このように祈れるものではないのだろうか? ところが、神様の目にはそう映らなかったらしい。 何と言ったらいいのだろう。うまく説明できないのだけれど、神様の「主権」とはいかなるものであるのか、改めて思わされた。 祈るとき、特にとりなしの祈りをするとき、うっかり神様の主権を侵すような祈り方をしていないか、気をつけた方がいいのかもしれない。自分では信仰に立って大胆に祈り求めているつもりでも、神様はそうは受けとらないのかもしれないのだから。 人の目にはいかにも霊的でもっともらしく、真理を語っているようでありながら、神様の目にはそうではない、という例は聖書のなかにも出てくる。ヨブの三人の友人たちだ。彼らはさんざんな目にあったヨブを励ますべく、神様についていかにももっともらしいことをたくさん語った。彼らが語っていたことは、少なくとも私の目にはそんなにはずれたことのようには思えない。 にもかかわらず、神様はエリファズに向かってこうおっしゃったのだ。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず・・・」(ヨブ42:7) ・・・ あぁ、うまくまとまらない。 今、私の頭のなかでは神様の「主権」ということと、神様を畏れるということ、へりくだって主を仰ぎ求めるということ、そんなことがグルグル回っている・・・ (9/17/2000) 今、世界的に人気爆発といわれている「ハリー・ポッター」。 日本でもすでにシリーズのうちの最初の二冊が翻訳されているそうだ。この本は『児童文学』ということで、欧米ではもっぱら子供の間で人気があるのだが、日本の場合は児童書としてではなく一般文芸書として出版され、夢中になっているのも子供より大人の方が多いようだ。 ゲーム漬けになっている子供たちに読書熱が戻ってきたと、大変もてはやされている「ハリー・ポッター」のシリーズだが、一方で一部のキリスト教団体やクリスチャンの 父兄/教師からは禁書にすべきとの抗議の声もあがっており、アメリカではかなり大きなディベートが巻き起こっている。 というのも、この主人公のハリーという少年は魔法使いの子供という設定で、ストーリーのなかには沢山の魔術/魔法などの超自然的な力が登場するのだ。それが保守的なクリスチャンの間で問題視されているらしい。 夏休み前だったか、人気のある児童書ということだったので、エミにも早速買い与えようと思っていた矢先にこの話しを聞き、私はとまどっていた。一部の書評では、ハリー・ポッターのシリーズは現代のC.S. ルイスやトールキンに相当する素晴らしいファンタジーだとも言われていたし、魔法使いが出てくるからといって、即、反聖書的とは言えないだろうと思った。さてどうしたものか、とりあえず保留にしておいた。 しかし、夏休みがあけて新学期が始まると、エミは私に「Mom, everyone else in myclass has read Harry Potter books! I'm the only one who hasn't read them!」と泣きついてきたので、つい折れて、シリーズの最初の1冊を買ってしまった。私も一緒に読んで判断すればいいかな、と思ったのだ。またエミには、この本は反聖書的で問題があると言っている人たちもいるから、読んでいるうちにおかしいと思ったら、それ以上は読まないように、と言い渡しておいた。 そんなこんなで私のなかでも迷っていたある日、同じ教会のSueからメールが来た。彼女のところに反ハリー・ポッターを訴えるチェーンメールが来たのだけれど、そこに書かれていることが事実であるなら確かに恐ろしいけれど、どことなくうさん臭いし、実際のところ、ハリー・ポッターて、危ないものなの? 誰か知ってる?というもの。転送されてきたそのチェーン・メールはかなりヒステリックな口調で、参照URLとして以下が出ていた。 http://theonion.com/onion3625/harry_potter.html なるほど、確かになんだかうさん臭い。それにしても、迷っているだけでなく私も少し積極的に調べてみようと思い、早速いくつかのクリスチャンサイトでハリー・ポッターについて検索してみた。 その中で、ジェームス・ドブソン博士のFocus on the FamilyのHPになかなかいい記事がいくつかあった。 http://www.family.org/pplace/schoolkid/a0009678.cfm 前述のチェーン・メールの内容はちょっと極端でそのまま受け入れるに値しないと思ったけれど、Focus on the Familyの記事はバランスがとれており、とても参考になった。 簡単に要約すると、やはりハリー・ポッターのシリーズはオカルト的であり、オカルトをいかにも好ましくポジティブなものとして、しかも大変リアルに表現していて、読者(特に子供)のオカルトに対する感覚を麻痺させる働きがありうるということ、また友情や勇気、勧善懲悪を勧めているようにも読めるものの、著者は決して聖書的なモラルの立場からこの本を執筆しているわけではなく、その底辺に流れるものは極めて世的な価値観であるということ、また主人公たちの言葉使いはシリーズが進むにつれて汚いものになっているし、暴力やおどろおどろしい場面の表現がとてもグラフィカルで、必ずしも児童文学として 相応しいとは言い難い、等々・・・ さらに、一部のクリスチャンの間ではC.S.ルイスのナルニア国物語との類似が指摘されているが、ナルニア国物語とハリー・ポッターシリーズの類似点は表面的なものでしかない、とのこと。前者では、「超自然的な力」は、それを行使しうる絶対的権威者(すなわちイエスを象徴しているアスラン)と結びついていて、その主権をもった権威者の善い意志に従って用いられているが、後者では「絶対的権威者」の存在はなく、自らの修練によってそのような力が得られるとされ、その力は自分の喜びのために用いられている。ハリー・ポッターのシリーズは、子供たちに魔術や超自然的な力というのは、それ自体はニュートラルなものであり、それを行使する権威は個々の知恵によって決まると教えている。 このような違いは、西と東が離れているほどの大きな違いであり、クリスチャンの読者は決して見逃してはならないであろう・・・ しかしだからといって、クリスチャンの読者はハリー・ポッターに対して感情的に反応するのではなく、世の塩、光となる機会として、知恵をもって、知性的に、ハリー・ポッターが提示している危険に対してチャレンジしていくべきではなかろうか・・・ なるほど。他にも参考になることがいろいろ書いてあった。 子供の世界で流行っていることは(大人の世界でもそうなんだけど)、聖書的価値観からみると、どこまで受け入れていいのか悪いのか、迷うものが多い。無批判に取り入れるのでなく、感情的に抵抗するのでもなく、ひとつひとつを御言葉に照らしあわせつつ、知恵をいただいて取捨選択していかなくてはいけないのだなぁ。 ちなみに買ってしまったシリーズの第一弾「ハリー・ポッターと賢者の石」、エミは思ったほどのめりこまなかったようで、途中まで読んだところでほっぽってある。 (9/23/2000) クリスチャンとして、私が守らなくてはならないこと、主張すべきこと、本当はそれほど多くないのかもしれないと、ぼんやりそんなことを考えていた。 イエス様の生きざまだって、随分フレキシブルだったよねぇ? それでいて一本筋が通っていて。律法学者やパリサイ人たちはそんなイエス様をみて、横で歯ぎしりしていたんだっけ。 最近よく、「クリスチャンとしてどう考えるべきなのか、はちこさんはどう思いますか?」という質問メールを受け取る。 みなさんそれぞれに具体的な問題を抱えておられて、誠実に、聖書的な解決を得たい、聖書的な選び取りをしたいと願っておられるのだ。 ところが肝心の聖書には、私たちが抱えているような具体的な問題に対する具体的な解答は必ずしも書いてなかったりする。 では、聖書とは、現代を生きる私たちには十分なガイダンスを与えることの出来ない本なのだろうか? そんなことはないよね。私達が直面するありとあらゆる問題に対処するために、必要にしてかつ十分な「知恵」が、そこにはあると私は信じる。 加えて、聖書に書かれている知恵を、私たちが場面ごとに応じて適切に当てはめていくことを助けてくださるための聖霊様が私たちには与えられている。 その結果、クリスチャン同士でも同じ問題に対して微妙に違う解答に到達するかもしれない。そういうこともあるだろう。それでいいんだと思う。表向きの解答だけを他のクリスチャンに「右にならえ」していれば、それが「聖書的な」解答をしていることになるとは限らないかもしれないのだから。 あ、だからといって、「はちこに意見を求めないでね」と言っているわけではないですよ。自分が真摯に御言葉に求め、祈って到達した結果が、他の人のそれと違っていたとしてもそのことで自分を責めたり、相手を批判する必要ははないだろう、ということです。大切なのは、他の人の意見を聞きつつも、最終的には自分で直接神様に聞くということなのかな。 全ての迷える人たちに--私も含めて--、聖霊様が必要なdiscernment と wisdom を与えて下さいますように。 (9/26/2000) ジョナサン・エドワーズの「宗教感情論」を読み始めた。 ものすごく興味深い。もともと感情に走りやすい性格をしている私は、キリスト教信仰における感情の是非ということについて、いろいろ考えることがあったのだけれど、「宗教感情論」というこの書物は、とても参考になりそうだ。 第三部まで読み進んで、いよいよ核心に触れてきたところで、「霊的」であることと「魂的」であることの対比が再び出てきた。いや、はっきりとそのような表現が用いられているわけではないけれど、どうも要するにそういうことのようだ。 (10/10/2000) メルマガ「VIP Family Magazine」を一緒に発行しているクララさんから、「聖霊に満たされてから」(メーベル・ フランシス著)という本について紹介してもらった。 以下、序文からの抜粋と目次。これを読むだけでも随分いろんなことを語られる。
(10/12/2000) 来週の日曜日に教会で、ぼぼるパパと私で特別賛美を歌うことになっている。世界宣教週間の最終日でもあるので、私たちが選んだのはRay Boltz の「Thank you」。これは、御言葉を宣べ伝える働きをして下さった人たちや、その働きのために捧げものをしてくださった人たちに、御言葉を伝えてもらった人が「ありがとう」と言っている歌だ。(ちなみにこのページで歌がそのまま聞けます。) 私は14歳の頃、アメリカ人宣教師の働きを通してイエス様に出会った。私が知っている限り、その先生は教会からはお給料のようなものは一切受け取っていなかった。一体どうやってご家族を食べさせていたのか、当時の私には検討もつかなかったが、こうしてアメリカに来て、その謎が解けた。宣教師の方々を送り出している教団や教会の人たちが、毎月毎月、忠実に祈りと献金を通してその働きを支えておられたのだ。 祖国を離れて遠い宣教の地へ出かけていって下さる宣教師の方々に私は心から「ありがとう」と言いたい。そして、その宣教の働きを可能にして下さった方々、宣教師を送りだして下さったお一人お一人にも、私は「ありがとう」を言いたい。その人たちがいなければ、あの宣教師の先生は日本に留まって働きを続けることは出来なかっただろう。そうしたら、私は今頃まだイエス様のことを知らないで、暗闇のなかでもがいていたかもしれなかったのだから。 この歌は、私自身の証しでもある。だから、これを聞くたびに、歌うたびに、どうしても泣けてしまう。「泣いて歌えなくなっちゃったらどうしよう」と言うと、ぼぼるパパは「それでもいいよ」と言う。歌い続けられなくなっちゃったら、自分の言葉として、証しとして語ればいいよ、と。 先日の日曜日に来た宣教師の先生はこう語っておられた。 「宣教は、教会のプログラムではなく、パッションです。宣教は、the multitude (大勢)に届こうとするものではなく、the individuals(個々の人たち)に届こうとするものなのです、まさに聖書がTHAT NONE PERISH (ひとりとして滅びることがないように)と言っているように・・・」 THAT NONE PERISH・・・ それは、まさに神様ご自身のPASSION・・・
(10/17/2000) 昨日の特別賛美は、聖霊様が豊かに油を注いでくださって、とても感謝な一時となった。歌っていた私だけでなく、会衆のみんなも涙を流していた。思えば、私のように宣教師の働きによって救われた者だけでなく、イエス様に出会った人たちは大抵の場合、誰かの献身的な働きがあってこそ、イエス様を知ることが出来たわけなのだから、それぞれにみんな、感じるところがあったようだった。私にイエス様のことを伝えてくれた人に対する一番のお礼は、私もまたイエス様を宣べ伝える人になることだと思う。ローマ書10章14、5節が思い出された。
***** 昨日は盛り沢山な日曜日で、語られたこともいろいろあった。その中でも、一番私の印象に残ったのはこれだろうか。 朝の礼拝でのメッセージは、中南米での働きを経て現在スペインで伝道をしている63歳の伝道師の先生が、夕拝ではシカゴを拠点にして障害者の方々に伝道をしている先生が語られたのだが、このお二人があることについて、全く同じことを言ったのだ。それは、伝道にしても何にしても、神様に仕えていくということは、自分が得意なことを自分で出来る範囲でする、というようなことではなく、自分の自然の力では出来ないようなことをも、聖霊様の力によって自分を通して成していただくことである、ということ。もちろん自分が得意なこと、才能のあることを神様のご栄光のために用いることは少しも間違っていないだろうけど、そこで止まっていてはいけない、ということだろうか。 そういえば私は、「神様、私に出来ることでしたら何でもいたします」みたいな祈りをよくしていたような気がするが、それは間違った態度だったんだ。そうじゃなくて、「あなたが私にさせてくださることなら何でもいたします」でなくちゃいけなかったんだ。気をつけていたつもりだったのに、いつの間にか主語が「私」になっていたんだなぁ。
(10/23/2000)
(11/4/2000) ![]() ![]()
はちこは喜びます!
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