ホーム信仰、希望、愛p. 24

はちこの今月の日記


このページには、「はちこの日記」から信仰に関する記述を集めて掲載しています。
加筆訂正してある場合もあります。

文末に(ぼ)とあるものはぼぼるパパによる日記であることを示しています。

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教会の、小さな子供を持つお母さんの会が今朝またあった。みんなで、「The Power of a Praying Parent」(by Stormie Omartian)という本を学び始めたところ。親による子供のためのとりなしの祈りについての本で、まだ私は最初の3章しか読んでいないけど、なかなかいい。

最初の方で著者は「完全な親(a perfect parent)になる必要はない、完全な親になれる人など誰もいないのだから。しかし祈る親a praying parent)になろうではないか、祈る親なら誰でもなれる!」と言っている。 単純なことだけど、本当にその通りだなぁ。

そういえば、一昨日の礼拝のメッセージは祈りについてだったけれど、牧師さんがこんなようなことを言っていた。

私たちは祈るとき、「祝福してください」とか「お守りください」とか、基本的にポジティブなことを求め、ネガティブなことは避けて通ることを求めて祈ることが多い。ところが、ポジティブなことはありがたいけれど、でも必ずしもそれが私たちを成長させるとは限らない。場合によっては、ポジティブなことに慣れっこになって、だんだん霊が神様から離れてしまうことだってあるかもしれない。一方で、試練や困難はつらいことだけれど、私たちは往々にして、そのようなネガティブな環境に置かれた時にこそ、一番成長するものではないだろうか・・・

聞きながら、ふむふむなるほど、確かにその通りだと思った。とすると、子供たちのためにとりなす時にしても、自分のために祈るときにしても、こんなふうに祈るのがいいのかもしれない。

  それが私の目にはポジティブなものであろうとネガティブなものであろうと、
  神様の目から見た時に私たちにとって益となるもの、私たちをますます神様に近付けて
  くれるようなものを私の人生にまた子供たちの人生に、送りこんでください。
  また、たとえそれが私や子供たちを喜ばせるようなものであったとしても、それによって
  私たちの心があなたから離れがちになってしまう可能性があるのなら、そのようなものは
  私たちにお与えにならないでください。私たちの成長のために、私たちをさらにあなたに
  近付けるためにあなたがお与えになるものは、どんなにつらいことのように思えても、
  私たちが感謝して受け取ることが出来ますよう助けてください、そしてそれらの試練の
  なかにあるとき、あなたからの力を受けて、私たちが学ぶべきことを早く学ぶことが
  出来るよう、助けてください・・・

もっとも、私がそのように祈ろうと祈るまいと、神様はすでにそのようになさっていて下さっているのだろうけど、自分でもそのことを認識して積極的に神様の御心に合わせて祈るとき、きっと私たちの成長のスピードも早まるに違いない・・・よね。

 (1/9/2001)


ところで、世の中にはいろいろな「診断テスト」がある。知能テスト、性格判断テスト、御霊の賜物診断テスト・・・  

御霊の賜物診断テストの類は、過去に3回やったことがあるが、私に与えられている御霊の賜物として診断されたもののトップは3回とも、違うものだった。一回は「とりなしの祈り(intercession)」、一回は「牧師/羊飼い(pastor/sheperd)」、最近受けたものでは「教師(teaching)」の得点が一番高かった。 なぜ毎回違うのだろう? 設問に対する私の答え方がおかしかったのか、テストそのものが不正確なのか、それとも御霊の賜物とはコロコロ変わるものなのか。

御霊の賜物とは、そもそも教会(信者の群れ)を建て上げ、教会の徳を高め、教会の益となるために聖霊様が個々のクリスチャンに御心のままに分け与えて下さるギフトのことで、音楽の才能とか、絵の才能とか、いわゆる持って生まれた才能とは違う(らしい)。もちろん、音楽や絵や、その他の才能もまた神様によって与えられたものだから、それらもまた神様の御栄光のために、教会の徳のために用いるべきであるのは同じだろうけど、一応「御霊の賜物」とは区別されるようだ。そして、御霊の賜物のうちあるものは恒久的といえるが、あるものは一時的で単発だったりすることもあるとか。

御霊の賜物はコロコロ変わる、というと大変聞こえが悪いけれど、神様がそれぞれの時期に、それぞれの状況で、どのように各信者を用いようとなさっているかによって、その時々に与えられる御霊の賜物が変わるとしても不思議はないように思う。何かの働きに召されている間は、その働きを遂行するために必要な力、知恵、賜物を聖霊様が与えてくださるのだろう。結局、ギフトなのだから、聖霊様は自由に与え、また自由に取り去られることもあるだろう。

興味深いことに、過去に受けた御霊の賜物診断テストでは3回とも、二番目か三番目に得点の高かった賜物は「the gift of Exhortation」だった。Exhortationとは、「勧告、警告、訓戒、熱心な勧め、熱心な励まし」というような意味。何となく、あ〜やっぱりそうなのかなぁ〜という気がしないでもないのだけれど、客観的に見るとどうなんでしょうね?

(1/10/2001)

礼拝のメッセージのなかで、牧師さんがこんなたとえを使っておられた。

子供の頃、草野球をするとき、一番上手な男の子二人がそれぞれのチームのキャプテンとなり、残りの子供たちの中から、一人ずつ順番に自分のチームに入れる子を選んだりしたものだった。最後に4人くらい残ると、片方のチームのキャプテンが寛容にもこういう。「残りは全部君のチームがとっていいよ。」するとそう言われた方は慌てて手を横にふりながらいう。「いや、いいよ、いらないよ。君が全員とってくれよ。」

私も小学生のころ、放課後みんなで校庭に集まってソフトボールだか野球だかをして遊んでいた時期があった。男の子も女の子もみんなで集まって仲良く野球をやったわけだけど、あの時も、まさに同じようなやり方でチーム分けをしていたのを思い出した。アメリカでも日本でも、同じようなことをやっているんだなぁ。そして、そう。最後の「みそっかす」に残るのは、とってもつらいんだよね。

「『戦力にならない』『役に立たない』という烙印を捺され、誰からも欲されないというのはどういう気持ちになるものでしょうか。しかし、イエス様は違います。HE WANTS YOU THIS MORNING!!! (今朝、イエス様はあなたを欲しておられます。)」

                                (1/21/2001)

何だか最近、乳児に対する虐待のニュースを続けざまに聞いている気がする。4ヶ月の赤ちゃんに熱湯をかけたとか、9ヶ月の赤ちゃんを足で踏み付けて殺してしまったとか・・・ 赤ちゃんのことを思っても、お母さんのことを思っても、胸が痛む。

何をしてもちっとも泣きやんでくれない、何時間も泣き続けられる・・・ そういう時の母親のストレスはものすごくよくわかる。私自身、6時間以上泣き続けられて、赤ちゃんを腕に抱えたまま「ギャ〜〜〜!!」と叫んでしまったこともある。赤ちゃんを床の上に放り投げたい衝動に駆られたこともある。(投げなかったけど)

身体的に傷をつけるような虐待はしていないくても、言葉や態度などで、子供の心にダメージを与えるような虐待なら、私自身、決して無罪だとは言えないし。

虐待って、虐待される子供のことを思うと、自分で自分を守ることの出来ない弱い存在に危害を加えるなんてとんでもないことだ!という怒りを覚える反面、虐待すればするほど、母親自身も傷付いていくのだと思うと、どうしようもなく切ない思いで一杯になる。 「もう可愛くなくなったから」と、幼児をダンボール箱に入れて餓死させてしまうような場合はどうだかわからないけれど、虐待する母親の圧倒的多数は普段は子供のことをものすごく大切に思っているに違いないのだから。

今、「虐待」という問題が社会的に認知されるようになり、虐待ホットラインのようなものとか、カウンセリングとかが一般に利用されるようになってきているようだ。でも、へたなカウンセリングだと、過去のつらい傷だとか、忘れていた自分の心の内側にあるものを深く突き詰めることを求められたりして、余計にストレスがたまるような気がする。もちろん、そういう根本的な取り扱いが必要な場合もあるのかもしれないが。決して、臭いものには蓋をしちゃえ、と言いたいのではなく、私たちが抱えているものには自分の責任で処理すべき部分と、そうでない部分があるだろうということ。

たとえばクリスチャンにとって、過去にどんなつらいトラウマがあろうとも、それはイエス様の十字架を受け入れた時点で、すでにイエス様にバトンタッチしてしまったのだから、これ以上自分で分析したり掘り下げたりする責任を負わないはず。 瘡蓋(かさぶた)は、治っただろうか?と何度もむしっていては、いつまでたっても傷は癒えない。癒えないどころか、バイ菌が入って化膿してしまうかもしれない。

多分、本当に取り扱ってもらう必要があるのは、自分の「過去」ではなく、「現在」なんだろうな・・・ う〜ん、難しい・・・ 聖霊様が、助けを求めている人々に、具体的な助けの道を示して下さいますように。

(1/24/2001)

「とっさの判断」ということを考えていた。

新大久保駅で線路に落ちた酔者を助けようとして線路に飛び込んだ二人の男性。人が落ちてからホームに電車が入ってくるまでの時間はわずか四秒だったと聞く。つまりこの二人の男性は、人が落ちたのを見て、その人を助けるため迷わずただちに線路に飛び降りたのだろう。今まさに電車が入って来ようとしているのを知らなかったはずはないのに。

日航機「ニアミス」事故。時速900キロ前後で行き交う2機のジェット、僅か1秒で500メートル接近するという。下降するか上昇するか、機長は「秒」の決断をした。論理的に考えている時間もなく、恐らくはそれまでの経験と知識に基づく「とっさの判断」だったのだろう。

ドクター・ルークの「ダイレクトカウンセリング」のなかで、「精神は言葉で構成されており、私たちは聖書の言葉によって私たちの精神を再構成される必要がある」というようなことを読んだ。たとえば人はしばしば自分は価値のない敗北者であるかのような思いにさいなまされたりするが、聖書はそうは言っていない。聖書は私たちは非常に価値ある存在であり、キリストにあって勝利者であると言っている。自分、他者、あるいはサタンの言葉を受け入れそれに自分の精神を支配させるのか、あるいは御言葉を受け入れ、御言葉の支配のもとに自らを置くのか。御言葉を私たちのうちに豊かに住まわせ、蓄積し、「受肉」させることの大切さを強調しつつドクター・ルークはこのように言っている。

「こうして意識レベルでも無意識レベルでも、御言葉が精神の内に構成されますと、<霊(直覚)→真理の把握(思い)→意思決定(意志)→行動(体)→平安と安息・いのち(感情)>という霊的行動パタンが条件付けされていきます。」

キリスト者としての歩みのなかでも、私たちの普段の知識・理性をバイパスして(飛び越えて)「とっさの」判断が求められたり、「とっさの」反応が表出したりすることがあると思う。
  
たとえば誰かが私の感情を傷つけるようなことを言ったとき・・・ 一呼吸おいてからならにっこり笑ってさらりと受け流すことが出来るかもしれないけれど、私のとっさの反応は何だろう? 

御言葉を私のうちに貯え、「受肉」させ、御言葉によって私の精神を再構成させること・・・ う〜ん、深いな。
                                

(2/2/2001)

某掲示板で、キリスト教の教派教団の違いや○○派、というラベルをはること、また自分の信仰のアイデンティティーをどう持つか、といった一連の話題が出ていた。

基本的には、「私は○○派の××教団に属す信仰を持っている」というような信仰のアイデン ティティーではなく、聖書そのものに基盤をおき、「キリストの御身体なる教会」に究極的 に属しているのだ、という認識を持っていたい、というようなところでみんなの意見が一致したかと思う。そして、教派教団の違いがキリスト教界に存在していることそのものが必ずしも悪いというわけではく、キリストの御身体のなかで、他の器官にはどのようなものがあり それらが御身体のなかでどのような役割を果たしているのかを知ることは、自分自身や互いをより理解し、より愛しあうようになるためにも決して無駄なことではないだろう、という点でもお互いに納得出来た(と思う)。(^^)

自分が何を考え何を発言したのか、自分自身の記録のためにちょっと私の投稿の一部をここにコピーしておこう。

「そもそも、『ラベリング』というのは、人間(who are rational agents)があみ出した、非常に有用なヒューリスティック heuristic なんですよね。とても便利なものですが、一方で私たちの思考/認知を特定の方向に向けてバイアスしてしまうこともあります。教派教団に関するラベリングについても同じことがいえますね。このようなラベルがなくなってしまった方がいいとは思っていません。でもそれが鋼鉄でできた不動不屈のフレームのようなものであると、私たちの信仰も、神様に関する理解も、とても限られたものになってしまいます。むしろ、ゴムで出来た柔軟なフレーム、という程度に受け止めておくのがちょうどいいのかな、と思っています。神様が、私がそれまで理解出来ていなかったような新たな真理を啓示して下さるとき、自分がすでに持っているフレーム/ラベル内でそれを受け止めようとすると、時に受け止めきれなくなって、自分の信仰あるいは他者の信仰を否定したり拒絶したりしてしまうようになるかもしれません。そうではなくて、神様が私を新しい信仰の深みに導いてくださるときには、素直に自分の認知のフレームを広げていけるようになりたいといつも思っています。つまり、自分でたてあげた神学の奴隷になることなく、いつも主の御前にteachable な柔らかい霊を持っていたいなぁということかな。」

*****

昨日だったか、最近洗礼を受けたという方から、この頃聖書を読むのが楽しくなってきたのだけれど、ちょっとわからない点があったので教えてください、というようなメールをいただいた。聖書を読むのが楽しくなってきた、というのが嬉しいじゃないですか。(^^)

実はご質問いただいたいくつかの点のうち、ひとつは私もほとんどお手上げというか、私自身いつも「よくわかんないな〜」と思っていたことだったので、正直にそのように申し上げた。(^_^;;

実際、聖書を読み始めたばかりの頃は、結構わからないことだらけで、いくら読んでもちっとも自分の実になっていないのじゃないかとすら思えることもあったりする。そんなふうに感じたことのあるかもしれない方に、ちょっといいお話。これは私が高校生の頃に聞いたお話なのですが・・・

「あるところにお父さんと小さな息子がいた。小さな息子は汚れたザルを持っていた。ある時お父さんは息子を川へ連れていき、その汚れたザルで水を汲んでごらん、と言った。息子は何度も何度もそのザルで水を汲み上げようとするのだが、穴があいているのでどうしても水は汲めない。 息子は父に言った。『お父さん、ダメだよ、水なんか全然汲めないよ! こんなこと、いくらやっても無駄だよ。』すると父は答えた。『そうかい? でもそのザルをよぉく見てごらん。何か気がついたことがあるだろう?』息子はしばらくザルを見つめていたが、やがてハッと目を輝かせて言った。
 
『わかった、お父さん! ザルがきれいになったよ!』」

(^^) いくら聖書を読んだって、わからないことだらけで、ちっとも実にならないから無駄だ、ということはないのですね。たとえ最初ははっきりとした理解につながらなくても、読み続けていくことで、私たちの霊の目が開かれ、魂が清められていくものなのだと思います。

                                   (2/6/2000)

福音を算数で表すと・・・
  
      1 cross
     + 3 nails
     __________
      4 given

 クロス(十字架) + ネイル(釘) =フォーギブン(赦された)

                              (2/13/2001)

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」 ピリピ2:1〜3

                               2/15/2001

親愛なるJCFN祈りの勇士の皆様、

長らく雪で覆われていたシカゴの町並みですが、ようやく雪も溶け、地面が見えるようになってきました。とはいえ、まだまだ寒さは続きそうです。皆様のところはいかがですか?

さて、聖書のなかでは「一致」や「心を一つにして」ということが繰り返し語られています。それなのに、この「一致」ほど、神様の御前において私たちが失敗していることは他にあまりないのではないでしょうか。

「一致」には二種類あるといいます。ひとつは「ユニティ(Unity)」、もうひとつは「ユニフォーミティ(Uniformity)」です。前者は、やり方やプロセスは違ってもそれぞれが共通の目的やゴールにむかって進んでいること、後者は、そのゴールに向かうやり方が、まるでみんなが制服を着ているかのように、判で捺したかのように同一であること。神様が私たちに求めている一致とは、もちろん前者ですね。そして私たちにとっての共通のゴールが何であるかは言わずもがなです。私たちは物事を見るとき、つい目に見えるものに気をとられてしまいがちです。一般に、クリスチャンが一致して働こうというときも例外ではありません。何かにつけて、教派教団の違いが問題になり、礼拝や賛美の仕方の違いが問題になり、信仰のバックグラウンドの違いが問題になったりします。このような違いからくる不協和は、みんなでお揃いのTシャツを着るくらいでは解決されないのは皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか。

また日本語の聖書で「一致」と訳されている箇所は、英語ではしばしば「harmony」「one accord」という言葉が使われています。つまり「調和」という意味です。普通、「調和(ハーモニー)」というとき、そこには違う音、違うパートが存在していることが前提となっているものです。ひとつのパートしかないのなら、それはハーモニーではなくユニゾンになります。ユニゾンにはユニゾンの美しさがありますが、ハーモニーの醸し出す美しさはまた格別ですね。

JCFNは超教派の働きですが、教派の違いだけでなく、本当に様々なバックグラウンドを持った人たちが関わっています。しかしそんな私たちが、ただ一つの目的のもとに集められ共に主を礼拝し御国のために働くようにと召し出されたのです。昨年関根一夫先生を講師に日本でもたれた帰国者カンファレンスのテーマ、「みんな同じ、みんな違う」はそれを本当によく現していたと思います。

自分とはやり方、考え方の違う人を見るとき、相手のやり方、考え方が祝福され、その人を通してなされる御国のための働きが実り多いものとなるように、お互いに、祈り合おうではありませんか。キリスト・イエスの日は近いのです。異なる音色を持った私たちを集めて絶妙のハーモニーを生み出させてくださる最高の指揮者であるイエス様にご栄光が帰されますように!

主に在りて、

中村佐知(JCFN祈りの勇士コーディネーター)

                                 (2/15/2001)



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