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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] エミが喘息になった。 夏の初めからずっと咳がとまらず、数週間前に医者に連れていった時はアレルギーでしょうといわれたのだ。そして抗ヒスタミンの飲み薬を飲ませるよう言われ、その通りにしていたのだが咳は一向に止まる気配がなかった。 夕べ、なんだかエミの呼吸がゼイゼイしていておかしいなと感じたので、もう一度医者に連れていったら今度は喘息との診断だった。 ***** 実は、先ほどからこの日記を何度も書いては消し、書いては消しをくりかえしている。私が本当に書きたかったことは、エミが喘息になって心配だ、とかそういうことではないのだ。 先日あるクリスチャンの方からいただいたメールで、このようなことが書いてあった。(ご本人の許可を得て引用させていただきます。)
アーメン、アーメン。 エミのことはもうすでに神様に委ねてある。神様は私がエミを愛する以上にエミを愛し、私がエミを心配する以上にエミのことをそのお心にかけて下さっているのだ。エミだけじゃない、みんのこともま〜やのことも、そしてぼぼるパパのことだって… 私が今一番したいこと、それはただ膝をかがめて、主なるイエス様を礼拝すること。「イエス様! あなたこそ私の主です!」と大声で告白すること。 私たちの人生、日々の歩みの中ではいろんなことが起きる。いいことも、悪いことも。 日記には到底書き切れないようないろいろなことが。そんな歩みの中で思わされることは、どんな苦しみの中を通されるときも、どんな試練の中を歩かされるときも、またどんなに絶好調で順風満帆の時も、ただひたすら、私の目がイエス様の十字架をみつめ、私の霊がイエス様の中に抱かれ、私の手が釘を打たれて傷ついたその御手にしがみついていますように、ということだけだ。
(9/2/1998) 今朝、エミの小学校の校長の校長先生から電話があった。いきなり校長が登場したのには驚いたが、アメリカの学校の対応の早さには感心した。 盗み聞きするつもりではなかったのだ。でも、Kちゃんがあまりに大声でエミを怒鳴っているのが電話の向こうから聞こえてきたものだから、つい聞いてしまったのだ。 Kちゃんは何か良からぬ計画を立てていて、エミにその計画の片棒をかつがせようとしている様子だった。「良からぬ計画」とは言ってもしょせん7歳の子供のこと、大人の目から見れば馬鹿ばかしいことではあった。しかし、Kちゃんのエミに対する話し方がひっかかった。 Kちゃんは去年もエミと同じクラスで、エミとAちゃんとKちゃんの3人が仲良しなのだと私はずっと思っていた。エミがそう言っていたからだ。でも、Aちゃんのお母さんは私に何度も、KちゃんがいかにAちゃんに対して意地悪で、誰も見ていない所ではAちゃんを突き飛ばしたり、顔を叩いたりしているということを打ち明けていた。そういう過去の事情も知っていただけに、子供のことだから、とは笑って済ますことはできなかった。 私は夕べ、私が電話で聞いてしまったことやAちゃんのお母さんから聞いたことなど、全てをエミの担任のミセス・フリーマンに知らせるべく長いメールを送った。 先生からは折り返し「事情は承知しました。よく目をひからせておきます」という返事が戻ってきた。 そして今朝の校長からの電話だ。校長自ら校庭に出て、子供たちの様子を観察し、エミやKちゃんともさりげなく話しをしたそうだ。私がミセス・フリーマンに連絡したことが事実だったため、校長はKちゃんを校長室に連れていき、二人だけで話しをしたという。そして後にKちゃんのお父さんとも話をするそうだ。 告げ口のようになってしまったことには気がひける。まさか子供同士のことにいきなり校長が介入してくるとは思わなかった。しかしアメリカの学校の校長は、日本とは違い、子供たちとの距離がとても近い。名前と顔もだいたいちゃんと一致させているらしい。何か問題が起きてから責任を取って辞職します、というような事態になる前に、責任者らしく自ら学校内のありとあらゆる事情に目を光らせ監督しているのだと聞いたことがあったが、まさにその通りだ。 とにかく、私は母親としてエミを守らなくてはいけないのだ。 それにしても悲しかったのは、エミは私に何も言ってくれなかったことだ。昨日のKちゃんからの電話の後でも、私は何度もエミに「ママにシェアしたいことはないの? 何か困っていることはある? Kちゃんはいつもエミに優しいの?」などと尋ねたのだが、「Nothing. K and I are best friends.」の一点張りだったのだ。Aちゃんは去年Kちゃんに苛められていたと言う。しかし回りからは仲良し3人組みのように思われていたのだ。もしかしたらエミも苛められていたのだろうか? それともエミの言うとおり、Kちゃんはエミに対しては優しかったのだろうか? そんなことをいろいろ考えていると、突然母親としての自分とエミの関係に自信がなくなってきてしまう。 なぜエミは私に何も言ってくれないのだろう? 本当にエミには何も苦痛なことはなかったのだろうか? 私は普段からいつも、エミがこの世の悪から守られますように、と祈っている。この世に属するものがエミに対して悪意を持って近づいてきても、エミの霊が、心が、また体がそのような悪意から守られますようにといつも祈っている。 エミがそのような悪意に対して鈍感になり、悪意を悪意として受けとめることで心が傷ついてしまうことがないように、むしろピリピ4章8節にあるような良いことに目をとめ、それによっていつも心に平安を保つことができますようにと祈っている。 だからエミはずっと守られていたのだろうか? そうかもしれない。 だとしたら本当に感謝だ。 これからももっともっとエミのために祈り続けよう。そして私とエミとの関係のために、神様が私に知恵を与えて下さるようもっともっとお願いしよう。もしもエミが私に言え (9/4/1998) 今日はエミといろいろなことについてゆっくりと話をした。ママもパパも、そしてF先生もB校長も、みんなエミのことを、そしてKちゃんほか学校の子供たち一人一人のことをとても愛していて、なにか困ったことがあればいつでも助けてあげたいと思っているのよ、ということなどや、そのほかいろいろと。 私は2日の日記で、エミのことは神様に委ねてある、と書いた。しかし昨日の日記では私がエミを守らなくてはいけないのだ!とタンカをきってしまった。 実は昨日書いたことの方が私の本音なのだ。自分の力には限界があるとわかってはいても、どうしても私が自分の手で娘たちを守りたいという思いがどうしようもなく私の心のなかで渦巻いているのだ。 ***** 4年前、エミは教会で遊んでいるときにテーブルに正面衝突をして前歯(乳歯)がグラグラになるという怪我をした。私が聖歌隊の練習をしている最中で、高校生の女の子が 歯茎が紫色に腫れ上がり痛がって泣くエミを見るのはつらかった。夜9時すぎだったけれど歯医者に電話をしてなんとかしてください!と泣きついたりもした。 エミがそんなケガ(今にして思えばそれほど大したことではなかったのだが、何しろ一人めの子供だったので…)をしたことがどうにも恨めしく、泣いて神様に抗議した。 握りこぶしをふりまわしながら祈った。 主人に肩を抱かれ泣きながら祈っているうちに、私の抗議の言葉はいつの間にか賛美に変わっていた。 私が命がけで娘を愛していると思うそれ以上に、神様はもっともっとエミのことを愛していてくださっているということがわかったからだった。 子供が小さいうちは一日24時間ずっと一緒にいることができる。私がこの目でずっと見守っていることも可能だ。しかし子供は成長していくのだ。だんだんに私の手を離れていくのだ。学校に行くようになるにしたがって、私から離れた場所にいる時間がどんどん長くなっていく。小学生のうちは物理的に私から離れるだけだろうが、中学生、高校生になれば精神的にも私から離れていってしまうのだ。 神様は私の心に語られた。 「あなたの手を離しなさい。エミを握りしめているその手を離しなさい。 その日の夜中、私はエミのベッドサイドにひざまずき、泣きながら祈った。エミを神様の御手に委ねます、と・・・ もちろんそれは私の母親としての義務を放棄するという意味ではない。「親はなくとも子は育つ」とばかりに放任するという意味ではない。とんでもない! 子供を神様の御手に委ねるとは、その子の人生における神様の主権を認めるということなのだ。 主権を持つのは私ではなくあなたです、と認めることなのだ。 本当はとても難しい。神様に明け渡したはずの主権を、いつの間にかまた私が奪回しようともがいている自分に気付く。 Even so, Lord..... I commit my girls to You.... (9/5/1998)
「以前は、牧師や宣教師、またフルタイムミニストリーに関わっているような人たちというのは、霊的にも人間的にも成熟した人なんだろうなと思っていたものでした。 でも最近、それはほとんど関係ないんだということがわかってきました。牧師でも宣教師でもフルタイムミニストリーに関わっている人でも、それぞれに弱さがあり、短所もあり、あるいはまだ未解決の問題や癒されていない過去の傷があったりするものなんですね。 またそれは、教役職についているクリスチャンにだけ当てはまることではなく、すべてのクリスチャンについても言えることですね。 そのような弱い器、土の器を用いて神様がその偉大さを表わし、土の器の働きを通して神様がご栄光を受けられるよう定められているとは、何だか驚くべきことです。 私たちの「肉」というと、肉の思いとか肉の行いとか、クリスチャンにとっては諸悪の根源であるかのようによくいわれますが、私たちがこの地上で生きているうちは「肉」からは解放されないのです。「肉」はついてまわります。私たちはある意味で、常に自分の肉の弱さと表裏一体なのですね。 しかし、というか、それだからこそ、なのでしょうか、その弱い「肉」を、聖霊様はご自分がお住まいになる「宮」とみなされるとは、すごいことではありませんか? 私たちには自分の肉を用いて何かよいものを神様に捧げることはできません。しかし、この肉自体を捧げることが出来るのです。 私の強さや能力や知恵などではなく、私の弱さや無能さや愚かさを捧げるのです。 私たちの弱さの中にこそ、恵みを十分に表わしてくださるお方に、ご栄光が永遠にまでありますように。」 (はちこから、ある人へのメール。) (9/16/1998) 「本当に、人間関係って難しいですね。 よく言われることだけど、教会の中での方が教会の外よりも傷ついている人が多いみたい。 それはやっぱり、クリスチャンは 互いに愛しあうべき、 という期待があるから、 自分が愛されていないと感じる時、 何かとても不当な扱い受けているような気がして傷ついてしまうのですよね。 でもね、 愛されていないと感じる私ではなく、愛していない私に目を向ける時、 突然まったく別の視線にハッと気付くのです。 十字架の上から私の上に注がれている涙と血潮、そして聞こえてくるささやき・・・ わたしはあなたを愛しているよ、 わたしはあなたを愛しているよ、 あなたにも、聞こえてきませんか?」 (昨日のメールの続き) (9/17/1998) クリスチャンの間には「一致」がいつも求められる。それは聖書にはクリスチャンは互いに愛し合いなさいとか、御霊の一致を保ちなさい(エペソ4章)とか書いてあるからだろう。 ところがこの「一致」というものは非常にくせもので、実際にクリスチャンたちが共に何かをしようというときに「一致」を保つというのは極めて難しかったりする。 私の教会の牧師が以前こんなことを言っていた。 「一致」には2種類ある。一つは「Uniformity」、もう一つは「Unity」。 前者は制服(Uniform)を着ているかのごとく、皆が同じやり方で同じことをしていること。やっていることは同じでも、Uniformを取ってしまえばその下にある動機や目的が同じであるとは限らない。 一方、後者はやっている事ややり方は違うけれどもその背後にある動機や目的は同じであること。 聖書がクリスチャンに求めているのは後者のような一致であると彼は言っていた。 パウロとバルナバだって伝道旅行に出かけるとき、「激しく反目しあった」ために別々の道を選んだ時があった。やり方でdisagree することがあっても、究極の目的が一致していればそれでいいんだと思う。これもうちの牧師がよく言うセリフ。 Mature Christians can agree to disagree. うん、そうよね。そして、自分のやり方とは違うスタイルをもっている兄弟姉妹をみても、くれぐれも批判したり敵対心を持つようなことがないよう気をつけないといけないな、と思う。そうしないと私たちのネガティブな思いがサタンにつけこまれ、自己憐憫(第2コリント12:9)や義憤(cf. ヤコブ1:20)という罠にはまり、結局神様のご栄光が表わされなくなってしまうから。 (9/27/1998)
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