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昨日から始まり三晩、私の教会で「Heaven's Gates and Hell's Flames」というお芝居が上演されている。このお芝居の主題は上記の聖句だ。 聖書には、人間は死んだら土に返ってそれでおしまいとは書いていない。別の人間や生き物に輪廻するとも書いていない。聖書によると、人間は死ぬと、天国か地獄のどちらかに行くことに決まっていると書いてある。天国へ行った人はそこで永遠に神さまと共に生き、地獄へ行った人はそこで永遠の裁きとして悪魔とともに燃える火の中へ投げ込まれる。 天国行きか、地獄行きか、それは一体誰がどのようにして決めるのか? 聖書はいう。「いのちの書」に名前がしるされている者だけが天国へ行き、名がしるされていないものは地獄へ行くのだと。そしてイエス・キリストを自分の救い主として受け入れた人の名前だけが「いのちの書」には記されているのだと。 夕べ私が見たお芝居はとてもパワフルだった。登場人物はどこにでもいるような、ごく普通の人達。 そしてそれぞれの人には自由意思が与えられており、イエス・キリストの十字架の福音を聞かされたとき、それを受け入れるか拒絶するか自分で選択できるようになっている。 ある人は言う、「僕には地位もお金も名誉も何もない。でも今まで真面目に生きてきたんだ。何が人のためになるのか考え、誠実に、自分に出来る限りのことをしてきたつもりさ。イエスという人のことは尊敬しているよ。彼は立派な人だった。でも僕にとって救い主ではないんだ。もし神様がいるというのなら、こんなに真面目に生きてきた僕のことを裁くわけがあるかい?」 ある人は言う、「おととし脱サラして新しく始めた会社がなかなかうまくいっていてね。ついに念願のマイホームも買ったよ。去年の暮れにちょっと身体を壊して以来、健康にも気をつかっている。酒の量も減らしているさ。今までちょっと働きすぎだったかもな。いやぁ、今度子供が生まれるんだよ。愛する妻と子供のためにも、健康に気をつけつつ頑張らなくっちゃな! えっ、天国? 大丈夫、大丈夫。 実は女房が敬虔なクリスチャンなんだ。 僕の分まで祈ってくれているみたいだから、いざとなったら家族揃って天国に入れてもらえると思ってるよ。 天国なんてものが、本当にあるんならね。」 ある人は言う、「私のお父さんは牧師なの。だから私も赤ん坊の頃から教会に行っていたわ。聖句だってたくさん暗記してるわよ。だけどね、もう疲れちゃったの。親や教会の人たちの手前、ずっといい子を演じて来たけど、私だって自分の人生を生きてみたいのよ。心の底ではイエス様が私のために死んでくださったってこと、ちゃんとわかってるわ。いずれは神様のもとに帰って来るつもりよ。ただ、私も自分の足で歩きたいの。親が敷いてくれたレールの上じゃなくて。それを願うって、そんなにいけないこと?」 ある人は言う、「私にとっての神様? 決まってるじゃない、それは私自身よ! 毎日瞑想をして、精神鍛練をし、切磋琢磨するのよ。そうすれば私は神へと昇華されていくの! 大地に現される自然の力、宇宙に広がる無限の力! それは私自身のなかにも潜んでいるの。私がやるべきことは、その力を引き出すことよ。 それに私には私を導いてくれる天使がついているの。この天使のいうことをいつも聞いているのだもの、私ほど霊的な人間はいないでしょ?」 ある人は言う、「キリスト教? それは結構なことだ。でも何であわてて今決心をしなくちゃいけないんだい? 人生は長いんだ、ゆっくり楽しんでからにしようぜ!」 ある人は言う、「僕は小さい時から教会にはずっと通っていたよ。両親が熱心な信者だったんでね。聖書の物語のことならだいたいわかるさ。今だって教会には行っているんだよ、日曜日にゴルフや仕事が入らない限りはね。献金だって時々するし、奉仕だって結構やってるんだ。宗教って、心が落ち着いていいものだよ。ま、深入りはしないよう気をつけているけどね。」 ある人は言う、「あなたが何を信じようとあなたの自由よ。でも私のことは放っておいて欲しいわ。どうしてイエスを信じないと天国に行けないの? 人それぞれ、いろんなやり方で天国に行けるんじゃないの? 入り口はいくつもあっても、てっぺんは一つなのよ。私には私の信じる道がある。それで十分満足してるし、幸せよ。」 ある人は言う、「聖書の教えは難しくてまだはっきりわからない。でも自分が罪人だということはおぼろげながらわかる。 僕の人生の中で何かが変わる必要があることもわかる。もしイエスを僕の救い主として受け入れることによって救われるというのなら、僕はイエスの十字架を信じたい。」 ある人は言う、「今まで好き勝手に自分の人生を生きてきた。でも心の中はいつも虚しくて、何かを求めていたわ。そしてある日誘われて教会に行き、自分の行き方が的はずれだったことに気付いたの。私が求めるべきものは、イエス様だったということに気付いたのよ。だから私は彼を私の心の中にお迎えしたの。」 それぞれの考えを持ち、それぞれの判断で彼らは選び取りをした。そして彼らの命がこの世から取り去られたとき彼はみな裁きの御座の前に立ち、「いのちの書」が開かれるのを見た。 ひとりひとりが御使いに尋ねる。「私の名前は『いのちの書』にしるされていますか?」 その名が子羊のいのちの書に書き記されていたものは、輝く栄光と御使いたちの大合唱のなか、天国の門をくぐりイエス様と対面し、その御腕にしっかりと抱かれる。「お帰り、待っていたよ。ここがわたしがあなたのために用意してあった永遠の住まいだ。」 しかしその名が「いのちの書」にしるされていなかったものはサタンのヒステリックな笑い声とともに音をたてて燃えさかる地獄の火の池の中へと投げ込まれる・・・ ***** もちろんこれはお芝居だけれど、現実ははたしてどうなのだろう? このような話を信じるか信じないかはあなたの自由です。お芝居の中の登場人物と同様、あなたにも自由意思があり、選択はあなたの手に委ねられています。 「私が罪人だって、一体どういうこと?」「イエス様の十字架の贖いって、結局なに?」「イエスを救い主として受け入れるって、何をすることなの?」 もしも今、そのように考えている方がいらっしゃいましたら、こちらのサイトに行ってみて下さい。あるいは、はちこに直接メールを下さっても構いません。 祈りつつ・・・ (11/2/1998) 今日、新しい本を買ってきた。マックス・ルケードの最新作「Just Like Jesus」という本だ。 表紙にはこう書いてある。
ルケードは優しい口調でこのように語る(注:はちこバージョンです)。
ここまで読んだだけで、私は泣けてきた。 私たちは神様がせっかく与えてくださろうとしているものを受け取ることなく、どれだけ自分を泥でまみれさせてしまっていることだろう? 神様は私がまだ罪にまみれているうちに、私に目をとめ私を愛してくださった。でもだからといって私が今のままでいていいということではない。愛されるために、ではなく、愛されているからこそ、私は変えられていく必要があるのだ。私たちは栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くために召されたのだ。 変えて下さるのは神様。 変えられる必要のある自分を認めて、今日こう祈りたい。 「主よ、私を愛し、受け入れ、あなたの子供としてくださったことを感謝します。 (11/7/1998)
夏にディズニーランドに行ったとき、スプラッシュマウンテンという乗り物に乗った。要するに水上ジェットコースターなのだが、ヤマ場は45度の急斜面を一気に滑り落ちるというところ。 落ちる前にまずゆっくりゆっくり斜面を上る。あの上っていくときの緊張感といったら! 手を離して万歳して滑り降りても危険がないものなのだから、そんなに緊張してしがみついていなくたって大丈夫なはずなのに、ものすご〜く緊張した。わかっていても、ドキドキした。 今、私は人生の急斜面を滑り落ちる直前の斜面を上っているような気がする。 ぼぼるパパは大学の助教授だ。 アメリカでは大学の教授というのは、一旦就職すれば定年まで安泰、というわけではない。就職するときの契約はたいてい4〜10年。その期間が終わる頃になると審査を受け、それに通ればはじめて定年まで安泰になるが、通らないとさよ〜なら〜、ということになる。この審査は決して形だけのもので誰でも通る、というようなものではない。厳しい基準がいろいろある。そして本人の実力だけではなく、その時の大学の経営状態とか、大学内の派閥のようなものも微妙に影響してくる。 ぼぼるパパは今年が審査の年なのだ。もう提出すべき書類などは全て提出した。あとは結果を待つばかり。結果は12月半ばにでる。あと一月あまりだ。 この件に関しては、ずっとなんとなく祈ってきた。 なぜ「なんとなく」かというと、なんといって祈ったらいいのかよくわからなかったからだ。自分の思いでは当然ぼぼるパパに審査に通って欲しいと願っている。シカゴ大学に定年までとどまれるかどうかは家族のこれからを大きく左右するし、駄目だったとなると新たに職探しをしなくてはいけないし、やはり精神的にも受ける打撃は大きいだろうなぁと思う。しかし、これはあくまでも自分の都合で考えた私の事情だ。要するに一生安泰でいたいという、極めて自分勝手な思いだ。 神様の側がこの件についてどう思っていらっしゃるのかはわからない。神様は私たちをシカゴの地で用いられようとしているかもしれないし、あるいは別の新しい地へ導かれようとしているかもしれない。その新しい地での生活は経済的に今より楽になるかもしれないし、苦しくなるかもしれない。新しい地に導かれるまでに、もしかしたら長い間待たなくてはならないかもしれない。待っている間は職もなく将来の見通しがたたない日々を送ることになるのかもしれない。 いろいろ考えると緊張する。神様が共にいて下さるのだし、何より私たちを導いて下さっているのは神様なのだから、そんなに心配する必要がないことはよくわかっているのだが、それでもやっぱり緊張する。ドキドキする。 ただ、神様の御心がなりますように、とだけ祈ってきたし、これからもそう祈る。どういう結果が出ても、神様に感謝し、その御名を賛美し、忍耐と信頼をもって次の進路を待つことが出来るように、と願う。 何が示されても、信仰と従順をもって従うことが出来るようにと願う。神様はぼぼるパパにこの家族の長として私たちを治める権威をお与えになっている。パパが神様に忠実であるのはわかっているから、私もパパに忠実に従いたい。 ゆっくりゆっくり斜面を上る。 ・・・・・やっぱりドキドキするなぁ! (11/12/1998) ある方から昨日の日記についてメールをいただいた。その方が次の御言葉を贈って下さった。
とても、とても感謝です。 新改訳の聖書ではこの部分は「主を待ち望む者は新しく力を得・・・」となっている。 同じイザヤ書の30章18節にはこのようにある。
主に望みをおくこと、主を待ち望むこと。 ひとは待つことが苦手だ。じっと待っているよりは、自分で一生懸命何とかしたいと思ってしまいがちだ。しかし神様は私たちに「主を待ち望みなさい」とおおせられる。
いただいた御言葉から始まって、するすると巻物をとくかのように次から次へと御言葉が浮かんでくる。 主が語って下さっているのがわかる。 「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」 なんて素晴しいことだろう! 御言葉をかみしめているだけでだんだん力が湧いてくる。 (11/13/1998) 今日の午後中、頭から離れなかった御言葉二箇所。
惑わされないで。 ある人はとても知的なことを言ってあなたを惑わそうとするかもしれない。 でも惑わされないで。 私たちを救うことが出来るのはただこの方、イエス・キリストのお名前以外にはないのです。 (11/17/1998) エルマは私の教会のメンバーで50代後半の看護婦さんだ。 彼女は去年の秋、宣教チームに看護婦として加わり、ルーマニアの子供たちのために働くよう神様から示された。 そのとき、彼女はこのように祈ったという。 「主よ、私はもう50代後半です。私の友人たちは皆定年退職後の準備を始めているところです。外国にも行ったことのない私が今ごろどうして宣教チームに加わりルーマニアになど行けるでしょうか?」 しかし神様は様々な方法でエルマがルーマニアに行くことが御心であることを示されたそうだ。 まずルーマニア人の友人が与えられ、その人を通してルーマニア語のレッスンを受けることができるようになった。また短期の宣教チームに加わってメキシコやルーマニアに数週間行く機会も与えられた。神様は彼女に必要なトレーニングのための扉を次々と開き、彼女を整えて下さった。 ところが彼女にはまだクリアしなくてはならない一つの問題があった。それは、ルーマニアに行く重荷が与えられる一ヵ月前に、彼女はコンドミニアム(日本でいうマンション)をローンを組んで購入したばかりだったのだ。定年後はそこでゆっくり暮らすつもりで購入したものだった。 「主よ、看護婦をやめて長期でルーマニアに行くのなら、このコンドミニアムを売却しなくてはなりません。しかし売りたくてもなかなか売れないで困っている人達の方が多いらしいので、私もこのコンドミニアムをはたして売ることができるのか、わかりません。もしあなたが本当に私をルーマニアへ遣わそうとなさっているのなら、この件もよろしく面倒を見てください。」 様々な準備に追われ、忙しくしているうちに、一年近くが経過した。来年の春にはルーマニアに向けて長期の宣教に出る予定だ。 「主よ、本当にコンドミニアムは売れるでしょうか? 借金を抱えたままでは困るのです。」 そうこうしているうちに、ある男性から電話がかかってきた。彼女のコンドミニアムを見たいという。彼は次の日に早速見にやってきた。そしてその次の日にも今度は巻尺をもって再びやってきた。 「気に入りました。売って下さい。支払いは現金で出来ます。」 エルマは大急ぎで引っ越しの準備をすることになった。しかし大抵のアパートは最低1年間は契約しないといけないという規定がある。彼女は来年の春までの数ヵ月しか住めない予定だ。あまり遠くないところに、彼女の所持品を全て収納できるようなサイズのアパートを手ごろな家賃でみつけなくてはならない。しかもほんの数ヵ月だけ、という条件で。 コンドミニアムの引き渡しの日がどんどん近づいて来る。彼女はなかなかアパートを見つけることができないまま引っ越しの準備を進めていた。 ついに引っ越しの当日になった。その日の朝、彼女はまだ引っ越す先が決まっていなかった。 「主よ。引っ越しの準備は出来ましたが、一体どこへ引っ越せばいいのでしょう?」 すると電話がなった。 「アパートを探していると聞きましたが、うちのアパートに空きがあります。今すぐにでも入居可能です。」 「私は半年たらずしか住むことが出来ないのですが、それでもかまいませんか?」 「かまいませんよ。」 エルマはすぐにその足でアパートを見にいった。大きさも家賃も手ごろだった。彼女はその日のうちにそのアパートに入居した。 ***** これは私が昨日教会で聞いた証だ。 神様が私たちの行く道を示して下さるとき、示すだけであとはほったらかし、ということはないのだ。時として私たちの信仰はギリギリの線まで試される。本当に主を信頼するのか? 本当に主にすべてをゆだねることができるのか・・・? 神様は本当に真実なお方。私たちが私たちの人生を神様の御手に明け渡すとき、神様は私たちの歩みを確かなものにして下さる。 もしぼぼるパパがシカゴ大学にとどまれなくなったとしても、神様はきっと次の道を示し、私たちの手をとって一緒に歩んでいって下さるに違いない。 主よ、あなたを信じます。あなたに信頼します。 (11/23/1998)
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