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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 忙しい時にこそ、主の前に出て静まる時間をもつ。 落ち込んでいる時にこそ、神様に向かって賛美の声をあげる。悲しみの中にあるときにこそ、主が与えてくださった祝福を数える。 「急いでやらなくちゃいけない」そう思っていたことも、一歩下がって距離をおいてみたら、思っていたほど大切なことではなかったことに気付かされることがある。 あなたがそのことに気がついたなら、遅すぎたりしないから、今こそあなたの優先順位をいれかえてみよう。 きっと楽になれる。 きっと一息つける。 きっと微笑むことができる。 私は自分ひとりでは何もできない、無力で小さなものだからこそ、 (12/5/1998) 神様がなさる奇蹟、御業には大きくわけて、「紅海型」のものと「ガリラヤ湖」型のものがあるような気がする。
これらはどちらも大変な奇蹟である。どちらも同じように偉大なる神様の御力を表わしていると思う。そして、これと同等に偉大で素晴しい奇蹟を、神様は私たちの生活の中でも現わして下さることのできるお方だ。 しかし私たちはしばしば、「ガリラヤ湖」型の奇蹟よりも「紅海」型の奇蹟を見ることばかり神様に願ってはいないだろうか? 少なくとも私はそうだ。 「神様には不可能なことなど何ひとつありません! もしこれがあなたの御心にかなったことであるのなら、全能の主よ、私の目の前にある全ての困難を取り除いてください! あなたが私の必要の全てを満たし、私の目の前に歩むべき道をはっきりと示してください! ・・・」 私はこんなような祈りをよくしてしまうのだが、これは「紅海」型の奇蹟を望む祈りである。 同じ神様の御力を体験するのでも、私たちにとっては、乾いた地を目の前に出していただいてその上を歩く方が、波打つ水の上を歩くよりも断然受け入れやすく、容易なことなのだ。ところが、後者の方は前者よりもはるかに大きな信仰を私たちの側に要求し、私たちが信仰の一歩を踏み出してみない限り、神様の奇蹟を自分にとっての現実のものとして体験することができない。 実は今日の昼間、ぼぼるパパが電話をかけてきて、仕事のことで、私が今まで考えたこともなかったようなオプションがありうることを教えてくれたのだ。 それは私の目には到底実行可能とは思えなかったし、気持ちのうえでも「嫌だ!」と言いたくなるようなことだった。 しかし、電話をきったあといろいろ一人で思い巡らしているうちに、もしかしたら荒れ狂う波の上からイエス様が「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。(マタイ14:27)」と声をかけてくださっているのかもしれない、という気がしてきたのだ。 だとしたら、私もペテロのようにこう言おう。
イエス様の「来なさい」(29節)という声が聞こえてきたならば、私はぼぼるパパと一緒に娘たち3人の手を引いて、イエス様にだけ目をしっかりととめて、水の上を歩くぞ! (12/7/1998) この数日間、いえ、数週間ずっと私の頭のなかにあったのは、「アドナイ」という主の御名でした。アドナイというのは「主」という意味です。「奴隷」に対する「主人」のことです。一段落ついたら「Great I Am」のページを更新したく、ずっと「アドナイ」という主のお名前について思いを巡らしていました。 当時のイスラエルでは、買い取られた奴隷は雇われている使用人よりも家の中で良い待遇で扱われていたそうです。使用人は用済みになれば解雇されますが、奴隷は死ぬまで主人のもとで面倒みてもらえるのです。食事も、使用人は別のテーブルにつきますが、奴隷は主人やその家族と共に同じテーブルで食事を取ることが許されていたそうです。 主人は奴隷に対して完全な服従を要求する代わりに、奴隷の一生に対して完全な責任をとっていたのです。 神様は私の主、アドナイ。 私はイエス様の血潮によって買い取られた神様の奴隷です。 先日Happy Islandsさんがレーナ・マリアさんの最新CDを贈って下さったのですが、その中に私が大好きな聖歌「みなささげまつり(I
surrender all)」が入っていました。
今夜もう一度、主の御前で両手を挙げそっとこの歌を歌います。 (12/14/1998) ぼぼるパパの仕事の結果がでました。 助教授から準教授に昇進し、無事、シカゴ大学にとどまれることになりました。皆さんのお心遣いとお祈り、本当にどうもありがとうございました。心より感謝いたします。 今朝10時過ぎ頃にぼぼるパパから朗報を知らせる電話が入ったのですが、その後、いろいろこの件について考えていました。 結果としてはシカゴに「とどまれる」ことになったのですが、「とどまる」という表現がなにか不適切であるような気がしてならなかったのです。 掲示板にも少し書いたのですが、一ヵ月ほど前に礼拝で、「It's your turn: You are called to this land!」というメッセージがありました。宣教の地に送られている人たちばかりが宣教の働きを担っているのでなく、それぞれの土地に置かれている私たちもまたその地において担うべき働きがある、さあ、今度はあなたの番ですよ、あなたに今この地で出来ることは何ですか? というような内容のメッセージでした。 ぼぼるパパの仕事についてずっと祈ってきていた時期だったので、このメッセージを聞いた時、これは神様が私たちに個人的に、私たちはこのシカゴの地に召されているのだということを語っておられるかなと思ったのですが、あまりに自分に都合のいい解釈であるような気もしたので、その事を思いの片隅に留めておきつつも、あまりそれにしがみつかないようにしようと思っていました。 そして、昨日、私の教会がサポートしているマダガスカルへの宣教師のウィルマ・シュナイダー師が現地で交通事故に遭い、肋骨が6本折れ、肺も片方潰れるという重傷を負ったという知らせが入りました。実はシュナイダー夫妻は数年前デピュテーションで私の教会を訪れており、その時のメッセージでミッション(宣教)について私たちにチャレンジをしたのです。 「収穫は多いが働き人は少ないのです! もしも主が今あなたを宣教へと召しておられるなら、それに答えたいという人はいますか?」私はそのメッセージが始まった頃から心臓が早鐘のように鳴っており、どんなことでもいい、神様が私を何かの働きに召して下さるのなら、迷わず従いたいと思わされていたのです。ですからそのような呼びかけがなされたとき、私は飛び上がるようにして立ち上がり、ただちに前に進みでたのでした。 昨日シュナイダー師の事故の知らせを受けたとき、その時のことがまざまざと脳裏に蘇りました。「あぁ、主が私を呼んでおられる」そんな気がしたのです。ですから私はてっきりぼぼるパパはシカゴ以外の土地で仕事を新しく始めることになるのかなと思い、それならそれで喜んで従おう、と覚悟(?)を決めたのでした。 そういう経緯のなかで、ぼぼるパパのシカゴ大学での昇進が決定されたのです。 私たちは「シカゴにとどまることになった」というべきでしょうか? ぼぼるパパとも話したのですが、「シカゴにとどまることになった」というよりも、「シカゴでセカンドターム(第2期)を務めるために新たに遣わされた」という方がふさわしいような気がするのです。 主よ、今あなたが私たちにシカゴの地でせよとおっしゃっておられることは何でしょうか。 (12/15/1998) 「やっぱり忙しすぎたんだ」 うちの教会では今年は秋から「プログラム」の連続だった。10月のミッションコンベンション、11月の伝道お芝居、12月はクリスマスコンサートと子供のクリスマスプログラム。その合間にサンクスギビングのディナーや、その他いろいろなことがあった。 牧師が今日の夕拝でこのようにいった。 「正直に皆さんの前で告白しますと、12月にはいってからというもの、忙しさが加速し、私の祈りの生活は本来あるべきところからすべり落ちてしまいました。私個人としてもそうですし、教会全体としても同じ様な傾向が出ていたように感じます・・・」 いろいろなプログラムがあったので、その分確かによく祈っていたような気はした。しかし、祈っても祈っても、魂は喜びと平安で充足されることはなく、むしろどんどん枯渇していったようにも思える・・・ もしかしたら祈りのフォーカスがずれていたのかもしれない。 今日の夕拝で、教会全体に、また私個人に語られたこと。 話すのをやめ、ただ私の前に出てじっとしていなさい。私はあなたを満たしてあげたいのだ。 牧師さんがこんな例話を語ってくださった。チェーンソー(電動のこぎり)を使って木を切ろうというときに、のこぎりの歯を木にあてて自分の力で前後にひくのでは、時間と労力がかかるばかりで何もはかどらない。しかし電源をいれてスイッチを押すなら、楽々木を切り倒すことができる。 私のここしばらくの祈りは、まさに電動のこぎりを自分の力で前後にひくような祈りだったのだ!何と愚かしいことだろう。忙しさに追われて基本をすっかり忘れていた。 まずは神様の御臨在の中に身をおき、神様を礼拝するところから始めよう。今、神様を賛美しよう。 (12/20/1998) 覚え書: それは「イエス・キリストを通しての罪の贖い」だという。 単に漠然と「互いに愛しあうこと」とか「受け入れあうこと」とか「赦しあうこと」ではなく、(もちろんそれらもイエス様の教えの大切な部分だけれど)、底辺にあるのは「イエス・キリストを通しての罪の贖い」なのだ。 (12/21/1998)
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