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加筆訂正してある場合もあります。 [ p.21 | p.22 | p.23 | p.24 | p.25 | p.26 | p.27 | p.28 | p.29 | p.30 ] 昨日は悲しいお別れがあった。 うちの教会で4年間ユース(中高生)と賛美/クワイヤを担当して下さっていたグレッグ副牧師がアーカンソーの教会に移ることになり、昨日がシカゴでは最後の日曜日だったのだ。 たった4年間だけだったけれど、みんなグレッグと奥さんのサンディのことが大好きだった。二人は丁度私やぼぼるパパと同年代で、エミより1歳下の女の子もいたので、私たちは家族ぐるみのおつきあいだったのだ。 グレッグ牧師は言っていた、 「神様が扉を開いて下さるとき、たとえその扉の向こうに何が待っているのかわからなくても、信仰をもって従順にその方向に進むのはクリスチャンの責任なのです」と。 お別れは寂しいけれど、神様は私たちの教会においても何か「新しいこと」をなさろうとしておられるのだ。 グレッグ牧師とそのご家族のために、また私たちの教会での後任の副牧師探しのために、祈る。 (3/1/1999) 今日は私の誕生日。 みんが朝起きるやいなや、開口一番に「Mommy, happy birthday!」と言ってくれたのがやけに嬉しかった。(^^) 教会でもいろいろな人がおめでとうと言ってくれたし、わざわざ誕生日カードを届けに来てくれた近所の奥さんもいたし、結城さんも結城さんの日記でおめでとうのメッセージをくださったし、もちろんぼぼるパパも今日は何かとサービスをしてくれたし・・・誕生日って、悪くないですね。これで歳さえとらなければもっといいのだけれど。(笑) でもひとつだけ、例年あるのに今年はないものがあった。それはうちの教会のエドモンドお爺さんからの「Happy Birthday!」の電話。エドお爺さんは教会中の人達のお誕生日をいつもちゃんと覚えていてくれて、みんなの誕生日に電話で祝福してくださるので有名なのだ。ささやかなようでいて、とっても素敵なミニストリー。でも今日はその電話がなかった。 84歳のエドお爺さんは今、肺炎で入院しているのだ。 実はしばらく前から彼は体調を崩していて、何度も入退院を繰り返している。まったく食欲もなくなり、もともと痩せている人だったがいよいよガリガリになって、入れ歯も入らなくなってしまったらしい。入れ歯が入らないからますます食事が出来ず、体力も衰えるばかりだという。 礼拝堂のいつもの場所にひとりで座っているエドさんの奥さんのデイジーお婆ちゃんに「どうですか?」と声をかけると「神様が私たちを支えてくださっているので大丈夫ですよ。神様の平安は私から決して離れません」という返事が返って来た。声は弱々しかったし、身体はガリガリに痩せてしまっているのに足だけは象のようにむくんでいたところをみると、デイジーお婆ちゃんの体調も決してよくはないに違いない。にもかかわらず、その笑顔は本物だった。 うちの教会には70代以上の年配の方が多い。中にはガンで闘病中の方もいるし、最近奥さんをなくされたばかりの方もいる。でもそのような中にあっても毎週教会に来て、心から神様を礼拝している様子を見ていると(私は聖歌隊で歌っているため、正面のステージの聖歌隊席に座っているので、みんなの様子がよく見えるのだ)、それだけでものすごく励まされる。 「あぁ、キリスト教って、イエス様の十字架って、本当に自分の一生を通して信じ続けるのに値するものなんだな」と妙に納得してしまう。彼らの生きている姿そのものが、十分イエス様を証しているのだ。人生、生きていれば良い時も悪い時もある。試練を通りながらもそのたびにイエス様の真実を経験してきた彼らにとって、もはや恐いものなしであるに違いない。 そんなことを考えていると、やっぱり歳をとるのも悪くないかな、と前言を翻してしまったりして。 ただあなたの御名だけに、とこしえまでにご栄光がありますように。 アーメン (3/7/1999) うちで隔週金曜日に集まっている聖研で、ある兄弟がこんなことを言っていた。 黙示録のエペソの教会にあてた手紙の「あなたは初めの愛から離れてしまった」という箇所はよく、救われたばかりのころの情熱的な信仰に立ち返れ、というように解釈されがちであるが、自分は必ずしもそうは思わない。救われたばかりのころの信仰はたしかに熱狂的であったかもしれない。しかし信仰の若さゆえの至らなさというものもあったはずである。時間がたつにつれ表面上の「熱情」は失われていくかも知れないが、キリストとの関係はより円熟し深みを増していく。昔の関係にもどりたいとも思わないし、その必要もないのではないか。 「初めの愛」の神学的な解釈はともかく、どのような関係も時間とともに変化していくことはまごうことなき事実であろう。たとえば、夫婦。恋に恋する季節、ハネムーン時代などというものは、そのただ中にいるときは夢中であったかもしれないが、そう長続きはしない(少なくともうちではそうだった)。それに続く長い結婚生活の中で、お互いに対する「愛」とは感情によるものから意志によって選び取っていくもの(act of will)へと変化していく。相手の一挙一動が自分の一喜一憂であったころから、相手が何を言おうと変わることのないコミットメントへと。 はちこと私が出会ったころのアルバムを今一緒に見ても、「おお、若い!」とか「こんなこともあったわねえ」という反応は出てくるが、あの当時二人が感じていたような☆トキメキ♪がそのまま戻ってくる、ということは最早ない。ないようなふりをしてる。実は、そんなこともないのだが、はずかしくて、言えない。いずれにせよ、以前とは違うのだ。(単に歳をとったということだけか?) 自分はキリストとの関係において成長しているのだろうか。こう考えるとき、いつも運転席にいようとする自分を発見する。何かをすることで自分が成長していることを証明したい。少なくとも確認していたい。 けれども、自らの成長を「演出」するまでもなく、いやおうなしに変化を迫られる時がやってくる、ということを最近学んだ。先週、私はいくつかの難しい決断を下さなければならず、胃が痛くなるような時期があった。(しかもこういう時に限り、鍵をなくしたり雨に降りこめられたりする。)どう転んでも八方美人ではいられないという状況、自分にとって全く未知の領域へ踏みこまなくてはならないという時に、私の中で何かが砕かれるのをはっきりと感じたのである。それがプライドなのか何なのかよくわからないのであるが、とにかく、運転席をイエス様にあけわたすしかない、という結論に行きついたのだ。その結果、決断の過程は決してスムーズなものではなかったが、不思議と平安が心に訪れた。すべてが終わったあと、久しぶりによく眠れた。 あの自転車の旅 の少年のような心境が、今ちょっとしている。(ぼ) (3/8/1999) フィリップ・ヤンシーというクリスチャンがしばらく前に日本を訪れ、お茶の水など何箇所かで神様の「恵み」について講演をしたそうだ。 彼の著作「What's so amazing about Grace?」という本が(ご免なさい、邦題は忘れてしまった)アメリカのキリスト教書店ではずっとトップセラーリストに載っている。 いつもネットでお世話になっているHさんが、そのヤンシーの講演に行きテープを入手なさったとかでご親切にも私にも送ってくださった。(^^) ヤンシーの講演のなかでとても印象に残ったのは、彼が行ったある調査についての結果だ。彼は飛行機の中で隣合わせた人など、多くの見ず知らずの人たちにこのように聞いてまわったらしい。 「クリスチャンというと、あなたは何を思い出しますか? どういう人たちのことだと思いますか?」 返って来た答えはどれもこれも 「クリスチャン? あぁ、同性愛に反対している人達のことですね」 というようなものばかりで、「愛と恵みに満ちた人達のことですね」というような答えはひとつもなかったそうだ。 日本でこのような調査をしたとしたら、やはり同じような結果になるのではないだろうか・・・ そしてその中にはきっと「クリスチャン? あぁ、友達のお葬式でもお焼香をあげない人達ですね」なんていう回答があるかもしれない。 実はクリスチャンのTさんが、最近、とてもとても親しくしていたノンクリスチャンのお友達を急性心不全で亡くされたのだ。33歳の若さで、婚約者もいらしたという。 そのTさんが、未信者の方のお葬式に参列するときに、遺族の方たちをいたわる気持ちや死者の方を悼む気持ちをどのようにして現わすのがクリスチャンとして適切なのだろう、というような疑問を投げかけておられた。 的を射た、いい質問だなぁと思う。 この質問を聞いて、私もいろいろと考えてしまった。 クリスチャンが仏式のお葬式に出るとなると、お焼香をあげるかどうするか、ということばかりに焦点がいってしまい、肝心のこと、すなわち遺族の方たちを励まし慰めること、愛する人を失った悲しみや痛みを分かちあうこと、といったことが忘れられがちではないだろうか? お葬式のあと遺族の方から「はちこさん? あぁ、あのお焼香もあげてくれなかったクリスチャンの人ね」と言われてしまうようなら、クリスチャンとしての証が立たないような気がする。 それよりも私は、たとえお焼香はあげていなくても「はちこさん?あぁ、あの誰よりも泣いてくれたクリスチャンの人ね」とか、「いろいろと気を遣ってお手伝いして下さったクリスチャンの人ね」と言ってもらえるようでありたいと思った。 ヤンシーは言っていた。本来クリスチャンは「恵みに溢れている」というのがトレードマークであるべきではないか、と。◯◯はダメ、××はしない、ばかりでは一体どうやってイエス様の十字架の救いという「恵み」をこの世に証していくことが出来るのか、と。(実際、◯◯も××も信仰ゆえにしないのだとしても。) Hさん、いいテープを送ってくださってどうもありがとう。 (3/9/1999) うちの教会の牧師夫妻は、この2週間ほど結婚25周年を記念してハワイ旅行に行っている。そこで先週の水曜日の集会でのメッセージはぼぼるパパが担当した。タイトルは「Responding to Changes (変化に応答すること)」。 今、私たちの教会ではいくつかの側面において、変化の時期、転換期を迎えているのだ。 聖書の箇所は使徒の働き10章9節から36節まで。ここはペテロが幻のなかで汚れた動物を出され、それを神様が「ほふって食べなさい」というのだが、ペテロが「きよくない物を食べたことがないので出来ません」と答え、それに対して神様が「神がきよめた物をきよくないと言ってはならない」とおっしゃった、というあのあたり。 ペテロが汚れた動物を食べたことがないというのは、それが旧約聖書に書かれている律法だったからだ。彼は律法に忠実だったのだ。しかしその律法をお与えになった神様ご自身が「食べなさい」と言っておられるのにペテロは「食べたことがないので出来ません」と答え、しかもそのようなやりとりが3回も繰り返された。 ペテロが忠実だったのは、神のみことばに対してだったのか、それとも自分の中で長い間培われてきた伝統/習慣に対してだったのだろうか? クリスチャン生活が長くなってくると、このような落し穴に陥るのはペテロだけではないだろう。もともとは信仰から出ていたはずのことも、いつの間にか特定の「やり方」「行動パターン」が一人歩きし始め、神様ご自身からの語りかけにも応じられなくなるような、かたくなな自我の一部にすりかわってしまうということ・・・ しかし神様はそのようなペテロを決して叱責したり戒めたりはなさらなかった。忍耐強く3回も同じ幻を見せてくださった。ペテロはといえば、それにもかかわらず、神様が自分に何を語られんとしておられるのかちっとも理解できなかった。9節から読みすすみ、幻を見た後ある出来事が起こり、34節まで来たところでペテロはようやく「これで私ははっきりわかりました!」と言っている。(ペテロのこういうトロイところが私は大好きだ。) ペテロにとって、それまでの伝統/習慣を打ち破って新しい行動に出ることは、決して容易なことではなかったはずだ。そういうことをしてはいけないと教えられ、自分でも確信を持って信じて従ってきたことだったのだから。 しかし神様はあえてペテロがそのような「変化」の中を通るように導かれたのだ。それはペテロがますます神様の深い愛と恵みを知るようになるためであり、それにより神様のご栄光がますます多くの人々に現わされるようになるためだった。 ぼぼるパパのペテロについてのこのメッセージを聞きながら、私は以前日記にも書いたR.O.牧師のことを思い出していた。 彼もまたこの「ペテロ体験」をなさったのだ。神様ご自身から語りかけを受けたことで、それまで自分が強く持っていた確信を変化させるようチャレンジを受け、それに応答されたのだ。それは今までの確信が間違っていたとか、そういう問題ではない。それはそれで神様からのものであり、間違ってはいなかったはずだ。ここで私が強調したいのは、主の御前におけるR.O.牧師の魂の柔らかさ、従順さということ。 クリスチャンは日々の信仰の歩みのなかで、いつもイエス様に似たものとされるべく少しずつ変えられている(はずだ)。しかし、時として、「えっ? 本気ですかぁ?」と言いたくなるような、「パラダイム転換」ともいえるような大きな変化を求められることもあるのではないだろうか? そのような「変化」が私たちの前に差し出されるとき、私たちが今まで従ってきたのは実は何に対してだったのかが問われるような気がする。 そのとき、私ははたしてペテロのように、またR.O.牧師のように、正しい応答をすることが出来るだろうか・・・ ぼぼるパパはこのように言ってメッセージを締めくくった。「『変化』というのは、しばしば私たちを不安にさせるものです。あたかも根なし草が荒波に飲み込まれ、どこに流されていくのかわからない、自分がどうなるのかわからない、そんな不安を与えることがあるものです。しかし忘れないで下さい、この変化の中、私たちの手をとり、ゆっくりと導いて下さっているお方は昨日も今日も、いつまでも変わることのない『永遠』のお方なのだということを。このお方に私たちの目をしっかりと留めている限り、どんな変化の中に投げ込まれても、私たちは決して方角を見失うことなく正しい応答をすることが出来るのです。」 (3/14/1999) 待つのはつらい。神様のご計画がどういうものであるのか、自分の前にゆっくりとひもとかれていくのを待つのは、本当にじれったくて苦しい。 早く、神様、早く! そう叫びたくなってしまう。 でもそんな時、ふっと、「あぁ、今自分が置かれているこの状態こそ、このプロセスを通っているということこそ、まさに神様のご計画なんだ、神様のご計画を現わしていただくのを待つまでもなく、私は今、神様のご計画の真っただ中にいるんだ」そんなふうに感じることがある。 そう感じることが、必ずしも私に平安や喜びをもたらすとは限らないけれど、でも私は日々の歩みの中、一瞬、一瞬を、この全地を造られ統べ治めておられる神様の御手の中で過ごしているのだ、それは紛れもない事実なのだ。 (3/28/1999) ![]() ![]()
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