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完全な明け渡し(Absolute Surrender)
by
アンドリュー・マーレイ(Andrew Murray)
初版:1895年 シカゴ ムーディプレス
完全な明け渡し(Absolute Surrender)
アラムの王ベン・ハダテは彼の全軍勢を集めた。彼には32人の王と、馬と戦車とがあった。彼はサマリヤに上って来て、これを包囲して攻め、町に使者たちを遣わし、イスラエルの王アハブに、言わせた。「ベン・ハダテはこう言われる。『あなたの銀と金は私のもの。あなたの妻たちや子どもたちの最も美しい者も私のものだ。」イスラエルの王は答えて言った。「王よ。仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」
(列王記第一 20章1-4節)
ベン・ハダテが要求したものは、「完全な明け渡し」でした。そしてアハブが差し出したものはまさにアハブに求められていたもの、すなわち「完全な明け渡し」だったのです。私は、「王よ。仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」というこのセリフを、全ての神の子供たちが御父に向かって自らを委ねる時に用いるべき「完全な明け渡し」を現わす言葉として用いたいと思います。あなたがこの言葉を聞くのは初めてではないでしょう。しかし、今、それをもっとはっきり聞くべきではないでしょうか。神の祝福の条件は、私たちが神の御手に全てを完全に明け渡すことにかかっているのです。神を賛美いたします! もし私たちの心が喜んでそのようにしたいと願っているのなら、神が私たちにしてくださること、そして神が私たちにお与え下さる祝福に制限はないのです。
「完全な明け渡し」、私がどこからこのような言い回しを持ってきたのかお話ししましょう。私はこの言い回しを自分でもよく使っていましたし、他の人が使うのも何度となく聞いていました。しかしあるとき私はスコットランドで、キリストの教会の現状や、教会や信者たちにとっても最も必要であるのは何か、という話し合いがなされている場にいたことがありました。そこには、働き人の訓練に非常に深く関わっている、ひとりの敬虔な働き人がいたため、私は彼に聞いてみました。いまの教会にとって最も必要なこと、最も説教されなくてはならないメッセージは何だと思いますか、と。彼は非常に穏やかな口調で、短く、きっぱりと答えました。
「神への完全な明け渡しです」
この言葉に私は、かつてないほど強く打たれました。その人は、彼が接している働き人のうち、この点で健全な者は、たとえ進歩は遅くとも、喜んで教えや助けを受け入れ、常に向上していきますが、不健全な者は、往々にして退歩し、働きから離れてしまうと語ってくれました。神の満ち満ちた祝福を受けるための条件は、神への「完全な明け渡し」なのです。
そして、いま私が神の恵みによって、あなたがたに伝えたいと願うメッセージは、このことです。----すなわち、天におられるあなたの神は、あなたが自分のため、また周囲の人々のために祝福を求めて祈った祈りに、このような問いかけを返されるのです。あなたは自分をわたしの手の中に完全に明け渡すつもりがあるのですか?と。 私たちの答えはなんでしょうか? 神様は多くの人々がこの問に対してすでに「はい」と答えたということをご存じです。そしてもっと多くの人々が、「はい」と言いたいと願いつつもどうしても言えずにいること、また「はい」と答えたものの、惨めな失敗に終わり、そのような生活をするための力の秘密を見い出すことが出来なかったと、自分を責めてしまっている人々も少なくはないということも、全てご存じであられます。神が全ての人々に語って下さいますように!
まず第一に、神はそれを私たちから当然のこととして要求しておられます。
神はあなたが全て明け渡すことを期待しておられる
そうです、それは神様本来のご性質のうちにその基いがあり、神様はそうなさらずにはおれないのです。 神様とはどういうお方でしょうか? 神様は命の基いです。存在と力と善の唯一の源であり、宇宙全体を通して、神様がなさる以外に良いものはないのです。神様は太陽を、月を、星を、花々を、木々を、草をお造りになられました。これらのものは全て完全に神様の御手に明け渡されているではありませんか? 神様が御心のままにこれらの被造物の中でお働きになることに、みな全て委ねてしまっているのではありませんか? 神様が百合をその美しさでお飾りになるとき、百合は神様がその美しさを完成させて下さることに自らを委ね、明け渡し、預けきっているのではないでしょうか? そして神によって贖われた子供たちよ、あぁ、神はたとえ半分、あるいは一部だけでもいいからあなたがたが神の御手に明け渡すことをするのなら、どれだけその働きをあなたがたの中でなさることが出来るか、わかりますか? でも神様はなさることができない。神様は命であり、愛であり、祝福であり、力であり、無限の美であられます。神様は神様を受け入れようと整えられている一人一人の子供たちに、ご自身を現わし彼らと交わりを持つことに喜びを見い出されるお方です。しかし、あぁ、この完全なる明け渡しが欠けているがゆえに、神様はそれをなさることが出来ないのです。 そして今、神様はやって来て、神であるがゆえに、このことをあなた方に要求なさるのです。
あなた方は日々の生活の中から、完全な明け渡しがどのようなものであるか、知っているでしょう。神様が定められた特別で明確な目的と務めの前には、すべてのものが放棄されなくてはならないことを知っているでしょう。 私のポケットのなかにはペンがあります。そしてそのペンは、字を書くという働きの前に完全に明け渡されており、私がそれを使って文字を書くからには、私の手に完全に明け渡されている必要があるのです。もし他の誰かがそのペンの一部を握ろうとするのなら、私はそれを使ってうまく書くことが出来ません。この上着は私の身体を覆うために、完全に私に引き渡されています。この建物は宗教的な働きのために全く引き渡されています。 それでは、新生によってあなたが神様からいただいたその永遠の命、新たなる性質において、もしもあなたが神様に完全に明け渡されることをしないのなら、神様は毎日毎時間、あなたのなかで神様の御業を働かせて下さることが出来ると思いますか? 出来ないでしょう。ソロモンの宮殿は、それが神様に捧げられた時、神様に対して完全に明け渡されました。私たち一人一人も、生ける神がお住まいになりその御業を偉大なる御力を持って成して下さっている神の宮なのです。ただし、たった一つの条件のもとにです。それが神様への完全なる明け渡しです。神様はそれを求めておられます。神様はそれを私たちから受け取るにふさわしいお方です。そしてそれを得ることなしには、神様は私たちのなかで祝福に満ちた御業をなさることができないのです。
しかし、神様はそれを当然のこととして要求するだけではありません。神様ご自身がそれを成して下さるのです。
神はあなたがたが明け渡せるよう成し遂げてくださる
「あぁ、しかし完全なる明け渡しとは、何と多くのことを示唆していることでしょう!」そのように言われる方は大勢いらっしゃることでしょう。 「私は今までに多くの試練や苦難を通ってきました。それでもまだ自我というものが私の中で多分に生き残っているのです。どうして私にそれを完全に引き渡すことなど出来るでしょうか? それがどれだけ多くの困難や苦痛を伴うことか、目に見えています。」そのように言う方もおられるでしょう。
ああ、何たることか! 神の子供たちが、神をそんなふうに考えるとは! そんなひどいお方だと考えるとは! おお、恐れと不安に満ちた魂よ。あなたに伝えたいことがあります。神が求めておられるのは、決してあなたが、自分の力や意志の強さによって全き明け渡しをすることではありません。神が、それをあなたの内側に作り出そうとしておられるのです。聖書にはこのように書いてありませんか? 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(訳注 ピリピ2:13) そして、それこそ私たちが求めるべきことです。----ひれ伏しつつ神の御前に出て、心がこう信じるようになるまでそこにとどまりましょう。永遠の神ご自身が、私たちに代わって、誤ったものを追い出し、悪いものを打破し、ほむべき御前でみこころにかなうことを行なってくださるのだ、と。神ご自身が、あなたの中で事をなしてくださるのです。
旧約聖書の中の人々、たとえばアブラハムをごらんなさい。神は偶然に、この信仰の父であり神の友であるこの男を見い出したのだと思いますか? アブラハム自身が、そのような信仰を、そのような従順を、そのような献身を、神とは関係なしに自ら持ちえたのだと思いますか? 決してそうではないことをおわかりでしょう。神様が彼を、御自身の御栄光のために立て上げ、また整えたのではありませんでしたか?
神はパロにこのように言わなかったでしょうか?「わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。」(訳注 出エジプト9:16)
もしも神がパロについてそのように言ったのであれば、神は御自身の子供たち一人一人のためなら、なおさらそのように言わないでしょうか?
あぁ、私は皆さんを励ましたいのです。そして全ての恐れをかなぐり捨てて欲しいのです。たとえわずかながらでも、願いをもって前に進み出てください。「おお、私の願いは弱すぎる。何がやってこようとかまわない、などという気にはなれない、全てに勝利を得ることが出来るなど、とてもそんなことが言えるほど大胆にはなれない。」もしもそんな恐れがあなたの中にあるのでしたら、私はあなたのために祈ります。どうかあなたが今、あなたの神を信頼し、それが可能であると知るようになりますように。このように言ってみてください。「わが神よ、あなたが私を喜んで願う者に変えて下さることを喜んで願います。」もしも何かがあなたをためらわせているなら、あるいはこのような犠牲だけは払いたくないと思うものがあるならば、今、神の御前に出て来て下さい。そしてあなたの神がどんなに恵み深いお方であるかを知ってください。恐れることはないのです。神様は、あなたに与えもしないものを、無理矢理よこせと云うようなお方ではありません。
神様は、この完全なる明け渡しを私たちの中で実現してくださろうと御手を差し伸べてくださっているのです。あなたの心の中にある、こうした葛藤や渇仰や切望の一切は、まさに、天来の磁石なるキリスト・イエスがあなたを引き寄せようとしておられる働きかけなのです。キリスト・イエスは完全なる明け渡しの生涯を送られました。そのイエス様があなたを御手の中におさめておられ、神の御霊様をもってあなた方の心の中に住んでおられるのです。あなたはこれまでに何度となくひどく神様の邪魔をしてきました。それでも神は、あなたが神様をがっちりと掴むことが出来るよう、助けたいと切に願っておられるのです。そして今、御言葉とこのメッセージをもって、あなたを御元に引き寄せんとなさっておられるのです。あなたが自分自身を完全に主の御手のなかに明け渡すことができるよう、神様を信頼して御前に出て来ようとは思いませんか? 神様はあなたの内で働くことの出来るお方なのです。そうです、神の御名にご栄光あれ! 神様はそれができるお方ですし、実際にそうしてくださいます。
神様はただあなたにそれを求め、達成させて下さるだけではありません。あなたがそれを御前に差し出すとき、受け入れて下さるのです。
神はあなたが明け渡すとき、それを受け入れてくださる
神は私たちの心の見えない部分で働かれます。聖霊様の隠れた御力により、私たちが前に進みでて言葉に出すようにと促して下さいます。そしてその時私たちは、「完全な明け渡し」を神様に委ね、差し出さなくてはなりません。しかし覚えておいてください。あなたがその完全な明け渡しを神の御前に差し出すとき、もしかしたらあなたの感情や良心においては、それがまるで不完全なものであるかのように思え、疑ったりためらったりするかもしれません。そして「これは『完全』だろうか?」と思うかもしれません。
しかし、おぉ、キリストがある時ある男にこのように言ったことがあったのを思いだしてごらんなさい。
「信じる者には、どんなことでもできるのです。」
そしてこの男の心は恐れ、叫んで言いました。
「信じます! 不信仰な私をお助けください。」(訳注マルコ9:23、24)
これこそが悪魔に対して大勝利をもたらした信仰であり、悪霊は追い出されたのです。 もしあなたが「主よ、私はわが神に私の全てを完全に明け渡します」と言うのであれば、たとえ心は震え、あなたの良心は「そんな力など感じられない、そんなに強い確信も、自信も全然感じられない」と言っているとしても、それで構わないのです。大丈夫なのです。恐れないで、ただそのままのあなたで前に進みでてごらんなさい。たとえ心が震えていても、聖霊様の御力は働いてくださるのです。
人間の側から見れば全てが弱々しく頼りなく見えるときでも、聖霊様は偉大なる御力をもって働いて下さるのだということを、あなたはまだ学んだことがないのですか? ゲツセマネの園での主イエス・キリストをご覧なさい。聖書にはイエス様が「永遠の御霊を通して」御自身を神へのいけにえとしてお捧げになったと書かれていますね。全能の神の御霊が、イエス様がそれを出来るようにとなさしめたのです。それにもかかわらず、なんという苦悩と恐れが、また胸が引き裂かれんばかりの悲しみが、イエス様を襲ったことだったでしょう! そしてイエス様はいかに祈られたことか! 外見上は、聖霊様が強大な力をもって働いているようには全く見えませんが、そこに神の御霊はおられたのです。これと全く同じように、たとえあなたが、自分では弱々しく、心に戦いを覚え、震えおののいているとしても、神の御霊の隠れたお働きを信ずる信仰によって、恐れることなく、自分自身を委ねて下さい。
そしてあなたが完全なる明け渡しに自らを委ねるとき、神様がそれを受け入れてくださるのだということを信仰によって受け入れて下さい。それこそが大切な点であり、往々にして見落とされていることなのです。明け渡しということに関して、信者はこのように神にむかって完全に心を開いているべきなのです。あなたのために祈ります。神に向かって完全に心が開かれますように。私たちは助けが欲しいと願っています。私たち一人一人がみんなそうです。それによって私たちの日々の生活において神様がより一層はっきりと私たちに現わされ、神様が私たちの人生の中であるべき場所にいてくださるようになり、「全てのことにおいて全てのもの」となっていただくためです。そしてもしも私たちが人生の全てにおいてそのようになることを望むのであれば、今それを始めようではありませんか。自分自身から目を離し、そして神様に目を向けるのです。私たちは皆、こう信じようではありませんか。失敗と罪と恐れに満ちた、地を這うあわれな虫ケラ同然の私、神の震える子供である私、こんな私がここで身を屈め、何が私の心をかすめるのかは誰も知らないのですが、ただこのように言うとき「おぉ神よ、私はあなたの条件を受け入れます。私は、私と私の周りの人々の上にあなたの祝福が注がれることをお願いいたしました。私は『完全なる明け渡し』というあなたの条件を受け入れました」、あなたが心の奥底で静かにそのように言うとき、忘れないで下さい、あなたの請願をしっかりと聞き、それをご自分の書物に記しておられる神がいらっしゃるということを。そしてまさにその瞬間に、あなたをご自分の所有物としてくださる神がいらっしゃるということを。あなたはそれを感じないかもしれない、自分では気付かないかもしれない、しかしあなたが神に信頼するなら、神はあなたを完全にご自分のものとしてくださるのです。
神様はただ「完全なる明け渡し」を私に求め、達成させ、御前に差し出すときにそれを受け入れて下さるのみならず、さらにそれを保持させてくださいます。
神はあなたが明け渡し続けることが出来るよう助けてくださる
これは多くの人にとって大変難しいことです。人々は言います。「私は集会などにいくといつも心が湧きたたされ、何度も神に自らを聖別したこともあるのですが、それが長続きしないのです。一週間か、長くて一ヵ月続けばいい方です。でもだんだん薄らいでいってしまい、最後には全部なくなってしまうのです。」
しかし聞いてください! それは、私がこれからあなた方に言おうとしていること、思い出していただこうとしていることを、あなたが信じないからなのですよ。神様があなたの中で完全なる明け渡しの御業を始められたとき、またあなたの明け渡しを受け入れて下さったとき、神様はご自身がその面倒をみ、保持するよう助けてくださるということを約束して下さったのです。あなたはそれを信じますか?
この「明け渡し」ということに於いては、たった二人しかいません。それは神と私です。私は虫ケラ、神は永遠のお方、全智全能の主であられるお方です。 虫ケラよ、あなたは今この全能の主である神に信頼して自分自身を委ねるということを恐れるのですか? 神様は喜んでそれをなさろうとしておられるのですよ! 神が、絶えることなく、日毎に、瞬間瞬間に、あなたを保って下さることが出来るお方だと信じられないのですか?
この一瞬一瞬、私は神の愛の中に保たれている
この一瞬一瞬、私は天からの命をいただいている
神様が、絶え間なく、一瞬一瞬、太陽をあなたの上に輝かせてくださっているのであれば、ご自身の命をあなたのなかでいつでも輝かせてくださらないなどということがあるでしょうか? ならばなぜあなたはそれを経験したことがないのでしょう? それはあなたは神様がそうしてくださると信頼しなかったからです。その信頼のもとに、神様にあなたの全てを完全に明け渡すということをしないからです。
完全なる明け渡しの人生には確かに困難もあります。それは否定しません。そうです。それは困難などという以上のものです。実際のところ、人間には全くもって不可能な人生です。 しかし、神の恵みにより、神の力により、あなたのうちに宿って下さっている聖霊様の力ににより、私たちはそのような人生を生きるべく定められているのです! それは私たちには可能な人生なのです! 神を賛美します! 神様がそれを保持させてくださることを、信じようではありませんか。
あなたがたの中にはあの年老いた聖徒の言葉を読んだことがある人もいるでしょう。90歳の誕生日に、神がどれだけ素晴しいことを彼にして下さったかを語ったあの神の僕・・・ ほら、ジョージ・ミュラーのことですよ。 ジョージ・ミュラーは彼の幸福の秘密、そして神が彼にお与えになった全ての祝福の秘密は何であると信じていると言っていましたか? 彼はそれには二つの理由があると信じていると言っていましたね。一つは、神の御前に日々偽りのない良心を保つことを恵みによって可能にさせていただいていたこと、もう一つは彼は神の御言葉をこよなく愛していたこと。 あぁそうです。偽りのない良心を日々神の御前に保つとは、つまり神様に対して完全に従順であったことですね。そして神の御言葉と祈りを通して神様と日々交わりを持つとは、すなわち完全な明け渡しの生活をするということです。
そのような人生には二つの側面があります。一つは、神があなたにさせたいと願っておられる働きに対して完全に明け渡すこと、もう一つは、神様がなさりたいと願っておられることを神様ご自身に為していただくことです。
まず第一に、神があなたにさせたいと願っておられることをするということについて。
あなた自身を完全に神の御心にゆだねなさい。あなたはその御心について、少しは知っています。十分にではないし、とても全てを知っているなどとは言えないでしょうが、それでも、主なる神に向かって無条件にこう言いなさい。「あなたの御恵みによって私は、あらゆることにおいて、日々あらゆる瞬間に、あなたの御心を行うことを願います」と。「主なる神様。願わくは、あなたの御栄光のためにならないような、また、あなたの聖なる御心に適わないような、いかなる言葉も私の舌にのぼることなく、いかなる衝動にも従わず、いかなる愛や憎しみを心にいだくことも決してありませんように」と。
こういう人もいるかもしれませんね。「そんなこと、可能ですか?」
私はお尋ねしましょう。神があなたに約束して下さったことは何ですか? 神に対して完全に明け渡されている器を満たすために、神は何をなさることが出来ますか? あぁ、神はあなたが期待する以上の方法であなたを祝福することを願っておられるのです。この世のはじめから、耳はまだ聞いたことがない、目もまだ見たことがない、神を待ち望む者のために神が備えてくださったものはそのようなものではありませんか。(訳注 第一コリント2:9)神様は、まだ聞いたことがないようなもの、あなたが想像出来る以上にはるかに素晴しく、あなたが理解できる以上にはるかに優れた祝福を、備えてくださっているのです。それは神聖なる祝福です。あぁ、今、言ってみましょう。
「私は神に、神の御心に、私自身を完全に捧げます、そしてただ神様が願われることだけを行います。」
あなたのその「明け渡し」をあなたに遂行させてくださるのは神様ご自身なのです。
そして、その反面、このようにも言ってみましょう。「神様が約束してくださった通り、神様にみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てていただき、事を行わせていただくよう、私自身を神様に完全に明け渡します(訳注 cf ピリピ2:13)。」
そうです、生ける神は神の子供たちのなかで、私たちには理解できないけれどもしかし御言葉に中で明らかにされているような方法で、事をなしてくださりたいと願っておられるのです。そしてそれを一日中、すべての時においてそのようになさりたいと願っておられるのです。神様は喜んで私たちの人生を支えようとしておられるのです。私たちはただ、自分の完全な明け渡しを、単純で、幼子のような、無制限の信頼としようではありませんか。
神はわたしたちが明け渡すとき、祝福してくださる
この、神への完全なる明け渡しは素晴しい祝福をもたらします。
アハブが敵のベン-ハダデ王に言ったこと、すなわち「王よ。仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」という言葉を、私たちもまた、私たちの神、愛に満ちた御父に言おうではありませんか。もし私たちがこれを言うなら、神の祝福が私たちのうえに注がれるでしょう。神は私たちを世から聖め分かちたいと願っておられます。私たちは神を憎むこの世から出てくるように召されているのです。神のために出て来ましょう、そして言いましょう、「主よ、あなたのためでしたら何でもいたします!」もしあなたが祈りをもってこれを言い、神の御耳に向かって告白するなら、彼はそれを受け入れて下さいます。そしてそれが何を意味するのか教えて下さるでしょう。
もう一度繰り返します。神はあなたを祝福して下さいます。あなたは祝福を求めてずっと祈ってきたのです。しかし、忘れないでください。完全なる明け渡しがなくてはいけないのです。お茶の時間がくるたびに、あなたは見ているでしょう。なぜお茶はカップに注がれることが出来るのですか? それはカップが空っぽだからです。そしてお茶に対して明け渡されているからです。もしもそこにインクや酢やワインなどが入っていたら、あなたはその器のなかにお茶を注ぎますか? 同じように、もしもあなたが完全に神に明け渡されていないのであれば、神はあなたを満たすことが出来ますか? あなたを祝福することが出来ますか? 出来ないのです。神が私たちのために素晴しい祝福を用意しておられることを信じようではありませんか。神のために立ち上がり、たとえ心が自信のなさゆえにうち震えていようとも、信仰をもってこのように祈ろうではありませんか。
「おお、神よ、私はあなた様の要求を受け入れます。この私、および、私に属するものすべてはあなたのものです。『完全なる明け渡し』こそ、あなたの神聖なる恵みによって私の魂があなた様に差し出すものです。」
あなたは自分で期待するほどには、それほど強くはっきりした解放感を覚えないかもしれません。しかし、神の御前にへりくだり、あなたが自我や自分に対する自信や努力に頼ってきたことにより聖霊様を悲しませていたことを認めましょう。そのことを告白しつつ主の御前にへりくだり身をかがめ、あなたの心を砕き主の前に塵としてくださるようお願いしましょう。 さらに、主の御前に身をかがめつつ、自分の肉には「良いものは何も宿っていない」という神の教えと、新たに別の命をいただく以外には助けていただきようがないのだということを、ただ受け入れてください。あなたは自分自身をきっぱりと否定しなくてはなりません。自分を否定することこそが、一瞬一瞬、あなたの命の力となるべきなのです。そうすれば、キリストがあなたの中に入ってきてあなたがたをご自分の所有物として下さいます。
ペテロはいつ解放されましたか? いつ変化が成し遂げられたのでしょうか? 変化はペテロが涙を流したことによって始まり、そのとき聖霊様がやってきて彼の心を満たしたのでした。
父なる神は私たちに聖霊様の力をお与えになることを喜ばれます。私たちは内住なる神の御霊をいただいているのです。私たちはそのことを告白し、またそれがゆえに主の御名を賛美し、にもかかわらず聖霊様を悲しませてしまったことを告白しつつ、主の御前に進みでるのです。そして私たちは御父に膝をかがめてこうお願いするのです。私たちの内なる人の中におられる聖霊様の力によって私たちを強め、神様の偉大なる力で私たちを満たして下さるようにと。そうすれば聖霊様がキリストを私たちに現わしてくださるにつれて、キリストが私たちの心の中に永遠に住まわるようになり、私たちの自我の生活は追い出されるのです。
今、神の前にへりくだって身をかがめましょう。そしてそのへりくだりのなかから、神様に対して教会全体のために告白しましょう。地上におけるキリストの教会の悲しむべき状態について語れる言葉はありません。私が時々感じるこの思いを表わす言葉があればよかったのにと思います。あなたの回りにいるクリスチャンのことを思い浮かべてごらんなさい。名前だけのクリスチャンや口先だけのクリスチャンのことを言っているのではありません。私が言っているのは、何百何千といる誠実で熱心ではあるけれども神の栄光のために生きていない、また神の力の中で生かされる生活をしていないクリスチャンたちのことです。彼らは、力はほとんどなく、神への献身もなく聖別もされておらず、クリスチャンは完全に神のご意思に明け渡されていなくてはならないという真理にほとんど気付いてもいない! あぁ、私たちは私たちのまわりにいる神の民の罪を告白し、また自らをもへりくだろうではありませんか。私たちは病める身体の一員です。病んだままの身体は私たちを妨げ、破壊してしまうのです。私たちが神の御元に立ち返り、この世に染まった生き方や互いに対する冷酷さから自分たちを引き離し、全く完全に自らを神様に明け渡さない限り、そうなってしまうのです。
私たちのクリスチャンとしての歩みのうち、どれだけが肉の霊や自分の力によって支えられてしまっていることでしょうか。日々の働きのなかで私たちは、神や聖霊様の力が私たちに与えられるのを待ち望むことがほとんどないままに、どれだけ人間の力や意思や思いの力でことを為そうとしてしまっていることでしょうか? 告白しましょう! しかし私たちが、教会の現状や、私たちのなかで為されている神様のための働きがいかに弱々しくまた罪にまみれているかを告白したなら、今度はもう一度自分のことに立ち返ってみましょう。自我に生きる生活の力から解放されることを心の底から本当に望んでいる人はいますか? 自我と肉の力というものは本当に存在するということを心から認めるる人はいますか? そしてそれらのものを、喜んでキリストの足元に投げ捨ててしまおうという人はいますか? 解放はあるのです。
私はある熱心なクリスチャンが、別離や死というものは「残酷な」考えであると言っているのを聞いたことがあります。しかしあなたはそのようには思いませんよね? 私たちが考える別離や死とはどのようなものでしょうか? それはこれです。 死とは、キリストが歩まれた栄光への道です。御前に置かれた喜びのゆえに、イエス様は十字架を忍ばれたのです。十字架はイエス様の永遠に続くご栄光が生まれた場所でした。キリストを愛しますか? キリストのうちに生きるものとなることを切望しながらも、キリストのようにはなりたくないと思っていますか? 死こそがあなたにとって、この地上で最も願わしいものとなるようにしなさい。自我への死と引き替えにキリストとの交わりが与えられるのですから。別離・・・ あなたはこの世から完全に自由になるものとして召し出されるということは困難なことであると考えますか? しかしこの別離のゆえに私たちは神様や神の愛に結び合わされるのであり、この別離によって、日々神と共に歩み生きる者となるために整えられることができるのですよ。 私たちはこのように言うべきではありませんか。
「神とキリストとの深い交わりの人生を得るためになら、何が私に別離や死をもたらそうともかまいません。」
この自我の生活、肉の生活をイエス様の足元に投げ捨てましょう。そしてイエス様に信頼しましょう。このこと全てについて理解しようなどと心配する必要はありません。ただ、キリストの死の力と命の力とをもってイエス様があなたのうちに入って来て下さるのだという信仰をもちましょう。そうすれば聖霊様が、十字架にかかり、死なれ、そして再び蘇られ、栄光のうちに生きておられるキリストを、私たちの心の中に与えてくださるのです。
翻訳 中村佐知
Copyright(C) 1999、2000 by Sachi Nakamura
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なるべく急いで訂正いたします。
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