ホームグレースライブラリー御霊の実は愛

完全な明け渡し(Absolute Surrender)

by
アンドリュー・マーレイ(Andrew Murray)
初版:1895年 シカゴ ムーディプレス

「御霊の実は愛」 (The Fruit of the Spirit is Love)

聖霊に満たされる生活の実際について、より実践的な観点から考察し、聖霊に満たされているということが、私たちの日々の歩みや言動のなかに、いかに現われてくるのかということについてお話ししたいと思います。

旧約聖書において、聖霊は神の奥義を現わすための神聖なる啓示の御霊として、あるいは神の働きを遂行するための力として、人間のうえに臨むことがしばしばあったことはご存じの通りです。しかし、その時御霊は人間のなかに留まることはしませんでした。今日、多くの人は旧約聖書に見られるような働きを為すための力の賜物を求めています。しかし、新約聖書におけるような、いのち全体に息吹を与え新たにしてくれる内住の御霊の賜物についてはほとんど何も知らないのです。神が聖霊を与えてくださるとき、その偉大なる目的は私たちのうちに聖なる人格を形造ることです。それは聖い心と霊的性質の賜物であり、何にもまして私たちにとって必要なことは、このように言うことなのです。

「もしも私が本当に神のご栄光のために生きることを願うのなら、私の内なる生活全体を聖別してくださる聖霊様をいただかなくてはならない。」

キリストが弟子たちに御霊を約束して下さったとき、キリストは弟子たちが証人となる力を持つためにそうしてくださったのではありませんでしたか、とあなたがたは言うかもしれませんね。その通りです。しかし弟子たちは大いなる御国の力とリアリティとをもって聖霊を受けたので、聖霊はただちに彼ら自身を所有するまでとなり、彼らが証しすべき時に必要な力をもってその働きを為すことの出来る聖なる者となるよう、ふさわしくしてくださったのです。キリストは弟子たちに力について語りましたが、その力をもたらしたのは弟子たちを全てに至るまで満たしてくださった御霊であったのです。

ここでガラテヤ書5章22節の御言葉に目を留めてみたいと思います。

「御霊の実は愛です」

聖書には「愛は律法が成就されたもの」と書いてありますが、私の願いは、二つの目的をもって愛を御霊の実として語ることです。一つはこの言葉が私たちの心のサーチライトとなり、聖霊について私たちが抱いている全ての考えや、また聖い生活に対する私たちのあらゆる経験が、この言葉によって試されるようにということです。この言葉を基準に自分自身を顧みてみましょう。愛の御霊としての聖霊によって満たされるよう求めることは私たちの日々の習慣となっていたでしょうか?「御霊の実は愛です。」 聖霊に満たされれば満たされるほど、私たちはより愛に満ちた者へと変えられていくということを、経験して来ましたか? これこそが、聖霊を願うにあたっての私たちの第一の期待であるべきです。聖霊は愛の御霊としてやって来られるのです。

おぉ、もしもこれがキリストの教会のなかで真実であったなら、教会はどれだけ違った状態になっていたことでしょう! 御霊の実は私たちの生活の中に現わされる愛であるという、この単純で神聖な真理を我々がよく理解することが出来るよう、神が助けて下さいますように。そして聖霊が私たちの人生を所有して下さるようになるとき、私たちの心は本当の、神聖で、普遍的な愛に満たされるようになるのだということを、私たちに理解させて下さいますように。

神が教会を祝福出来ない最も大きな原因の一つは、愛の欠如です。からだに分裂があればそこに力はありません。激しい宗教戦争で、オランダがスペインに対して高らかに立ち向かったとき、オランダ側のモットーのひとつは「一致は力を生み出す」というものでした。神の民が一つのからだとして立ち上がる時、愛の交わりのなかで神の御前に一つとなる時、深い愛情を持って互いに愛し合う時、この世が見ることの出来る愛を持って私たちが一つとなる時、その時にこそ初めて、彼らが神に願い求めている祝福を確実なものにすることが出来るのです。もしも一つの器がいくつかのかけらに割れてしまうのであれば、その器は満たされることが出来ないということを忘れてはいけません。器の一部であるかけらを取り、それをわずかな水に浸すことなら出来るでしょう。しかしあなたが器一杯に満たすことを願うのであれば、その器には欠けたところがあってはいけないのです。これはキリストの教会について、文字通り真実です。私たちがなおも祈らなくてはならないことがあるのなら、それはこのことです。「主よ、聖霊の御力によって私たちを一つに溶かし固めて下さい。ペンテコステの日に弟子たちを一つの心、一つの魂としたその聖霊が、私たちの間でも同じ神聖なる働きをなしてくださいますように。神を賛美します、『御霊の実は愛』ですから、私たちが互いに神の愛を持って愛し合うことが出来ることを感謝いたします。」

愛することに自分を明け渡しなさい。そうすれば聖霊は来て下さいます。御霊を受けなさい。そうすれば御霊はあなたにさらに愛することを教えて下さるでしょう。

神は愛です

では、なぜ御霊の実は愛なのでしょうか? なぜならば、神は愛だからです。

それはどういう意味でしょうか?

神は、ご自身を私たちに伝えることを喜ばれます。それはまさに神のご性質であり、それこそが神の本来のお姿なのです。神には自己中心はなく、何事をもご自身の中だけにとどめることはなさいません。神の本質は、いつも与えることです。太陽や月や星、あなたが目にする全ての花、空を飛ぶ全ての鳥、海を泳ぐ全ての魚、このようなもの全て、神はその被造物に対していのちを示し伝えるのです。神の御座のまわりにいる御使いたち、栄光の炎に燃えさかるセラフィムやケルビムもそうです。神は愛であられるので、ご自身の輝かしさや祝福に満ちた様を彼らにも分け与えられるのです。そして私たち、神に贖われた子供たちに対しては、神はその愛を注がれることを喜ばれるのです。それはなぜでしょう? 先にも言いましたように、それは神は何物をもご自身だけのもとにはとどめておかれないからです。永遠の昔から神はひとり子を持っておられ、御父は彼に全てのものをお与えになりました。神が持っておられたものは全て後ろに隠されることなくそのひとり子に与えらたのです。「神は愛」です。

ある神父は以前、三位一体は神聖なる愛の啓示として理解するとよくわかると言いました。愛するお方である御父は愛の泉、愛されているお方である御子は、そこに愛が注がれる愛の貯水池。そして御父と御子を一つに結ぶ生ける愛である御霊は、そこから愛を世にむかって溢れ出しておられる。ペンテコステの霊、御父の霊、御子の霊、それは愛なのです。そして聖霊が私たち、あるいはほかの人々のところにいらっしゃるとき、御霊は神の中にとどまっておられたときほど愛の霊ではなくなってしまうということがあるでしょうか? そんなはずはありません。御霊はご自身のご性質を変えてしまうことはできません。神の霊は愛です。「御霊の実は愛です。」

人間は愛を必要としています

それはなぜでしょうか? 人間が何よりも必要としているもの、キリストの贖罪が成し遂げようとしていたこと、それはこの世に愛を回復させることだったのです。

人が罪を犯したとき、彼はなぜ罪を犯したのでしょうか? 自己中心が彼の中で勝利をおさめ、彼は神よりも自分自身を求めたのでした。そして見てごらんなさい! アダムは女が彼を迷わせたのだとたちまちにしてその責任を女になすりつけたのでしたね。神への愛は去り、人への愛も失われたのです。さらに見てみましょう。アダムの二人の子供たちのうち、一人は自分の兄弟を殺した殺人者となりましたね。

これによって、罪がこの世から愛を奪い取ってしまったのだということがわからないでしょうか? あぁ! この世の歴史そのものが、愛が失われてしまったことの証明であるのです! 異教徒のなかにも美しい愛の例はあったかもしれませんが、それも失われてしまったものと比べてみれば、ほんのわずかにすぎないでしょう。罪が人間にもたらした最悪のこと、それは人を自己中心にしてしまったことです。なぜなら、自己中心な者は愛することが出来ないからです。

主イエス・キリストは、神の愛の御子として天から降りてこられました。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」 神の御子は愛がどういうものであるかを示すためにやって来られました。そしてこの地上において、弟子たちとの交わりのなかで、貧しい者や惨めな者たちへの憐れみのなかで、さらには彼の敵に対する愛のなかで、主イエスは愛の生涯を送られ、愛の死を遂げられたのです。彼が天に昇られたとき、代わりに誰がこの地上には送られたのでしたか? 愛の御霊です。自己中心や妬みやプライドを追い出し、人々の心に神の愛をもたらすために、愛の御霊がやってこられたのです。「御霊の実は愛です。」

では約束された聖霊をいただくための準備は何だったでしょうか? ヨハネの福音書の第14章にその約束が出てくることはご存じでしょうが、その前の13章において何が書かれているかを忘れてはいけません。キリストが聖霊をお約束される前に、彼は新しい戒めをお与えになりました。その新しい戒めについて、キリストは素晴しいことをおっしゃいましたね。まず、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。弟子たちにとって、キリストの死に至る愛は、彼らの行いや互いの交わりのうちにおける唯一の律法となるべきものだったのです。これらの漁師たち、プライドと自己中心に満ちた人たちにとって、これは何というメッセージであったことでしょう!「わたしがあなたがたを愛したように、」キリストは言いました、「互いに愛し合うことを学びなさい。」そして神の恵みによって、彼らはそうしたのです。ペンテコステが来たとき、彼らは一つの心、一つの魂になっていました。キリストがそれを彼らのためになしたのです。

今、神は、私たちが愛に根ざし愛のうちを歩くようにと招いておられます。たとえ人があなたを憎むとも、あなたはなおその人を愛しなさいと、神は私たちにおっしゃるのです。真実の愛は、天にあるもの、地にあるもの、いかなるものによっても打ち負かされることはありません。憎しみがあればあるほど、それら全てを通して愛がますますそれに打ち勝ち、その真実の姿を表わすのです。これこそがキリストが弟子たちに実践するようにと命じた愛なのです。

キリストはさらに何とおっしゃったでしょうか。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

バッジを身に着けるということがどのようなことであるか、皆さんご存じですね。キリストが弟子たちに言ったことは、要するにこういうことだったのです。「わたしはあなたがたにバッジをあげましょう。そのバッジは愛です。これがあなたの印となります。天においても地においても、この愛によってのみ、人々はわたしを知ることが出来るのです。」

この地上から愛が消えてなくなってしまったかのように、不安に思えてきませんか? もしも「私たちが愛のバッジを着けているのを見たことがありますか?」とこの世に聞くならば、この世は「いいえ、私たちがキリストの教会について聞いたことがあるのは、喧嘩や分裂のない場所など存在しないということです」と答えることでしょう。 私たちがイエスの愛のバッジを身に着けることが出来るよう、心を一つにして神にお願いしましょう。神はそれを私たちに与えることの出来るお方です。

愛は自己中心に打ち勝ちます

「御霊の実は愛です。」 なぜですか? 愛以外には自己中心を追い出し、打ち勝てるものはないからです。 自我とは、それが神との関係においても、周囲の一般の人との関係においても、あるいは仲間のクリスチャンとの関係においても、自分のことばかりを考え自分のことだけを求めるという恐るべき呪いです。自我こそ私たちにとって最大の呪いです。しかし、神を賛美します、キリストは私たちを自我から贖い出すためにやって来られました。私たちは時おり自我の生活からの解放について語り、そのことについて私たちを助けてくれそうな全ての御言葉ゆえに神に感謝します。しかしながら、自我の生活から解放されるなら、もはや何の困難も経験することなく神に仕えることが出来るようになるのだと、勘違いしている人がいるのではないでしょうか。また、自我の生活から解放されるなら、私たちは一日中全ての人に対する愛によって満たされ溢れているはずだということを、忘れてしまっている人たちもいるのではないでしょうか。

聖霊の力を祈り求める人の多くが、何かを頂きはするものの、なぜほんのわずかしか頂けないのか、ここに理由があります。それは、彼らは働きのための力や祝福のための力を祈り求めますが、自我からの完全な解放のための力は願わないからなのです。これは神との交わりにおける義なる自我だけでなく、人々との交わりにおける愛の足りない自我についても当てはまることです。「御霊の実は愛です。」キリストは私たちの心を愛で満たすことが出来るという、栄光に満ちたお約束をあなたがたにお伝えしましょう。
 
多くの人は時には愛そうと努力します。自らに愛することを強いようとするのです。それが間違っていると言うわけではありません。何もしないよりはましです。しかしながら、このような試みの最後はいつも悲しいものです。そういう人は「私はいつも失敗する」と告白せざるを得ないでしょう。それはなぜでしょう? それは、聖霊が神の愛を私たちの心に注いで下さることが出来るのだという真理を信じ受け入れることを学んだことがなかったからという、単にそれだけの理由によるのです。「神の愛が私たちの心に注がれているからです」(訳注 ローマ5:5)これは何と祝福に満ちた、けれども狭い枠の中でのみ理解されて来た御言葉でしょうか! この御言葉はたいていの場合「私に対する神の愛」という意味としてのみ理解されてきましたが、何という狭い解釈でしょう!これは始まりに過ぎないのです。神の愛はいつでも完全で、内住の力として満ち満ちている愛です。私に注がれる神の愛は、神に対する私の愛として神に向けられ、さらに私の中で溢れ出して周囲の人々にまで及ぶのです。私に対する神の愛、神に対する私の愛、そして周囲の人々に対する私の愛・・・この三つはひとつです。分けることは出来ません。

神の愛があなたの心に、また私の心に注がれ、それによって私たちは一日中愛することが出来るのだと信じて下さい。

「あぁ!」あなたは言うでしょう。「私の理解は何と矮小だったことか!」

子羊はなぜいつもおとなしいのですか? それが子羊の性質だからですね。子羊にとっておとなしくしていることは面倒を伴うものでしょうか? いいえ。なぜそうではないのですか? 子羊はとても可愛らしくおとなしいですね。子羊はおとなしくあるようにと学んだのですか? いいえ。どうしてそれはそんなに簡単なことなのですか? それが子羊の性質だからです。 では狼はどうですか? どうして狼にとって残酷であることは、またかわいそうな子羊や羊に牙を向くことは、面倒が伴わないのですか? なぜならそれが狼の性質だからです。狼にとっては勇気を奮い起こす必要などありません。それが狼の性質なのですから。

では私はどのようにしたら愛することを学べるでしょうか? 聖霊が私の心を神の愛で満たして下さるまではだめです。今までの私は、自分に快楽や幸せや喜びや慰めをもたらすものとして、自己中心的に愛を求めて来ましたが、それとはまったく違った感覚で神の愛を慕い求めるようになるまでは、私は愛することを学べないのです。私が「神は愛である」ことを学び始め、それを宣言し、自己犠牲に必要な内住の力としてその愛を受けとるまでは、愛することを学べません。私にとっての栄光や祝福は、キリストのようになることであり、同胞のために自分自身の中にある全てを犠牲にすることであると理解し始めるまでは、愛することを学べないのです。神がそのことを私たちに教えて下さいますように! おぉ、聖霊が私たちの心を満たしてくださる愛はなんと神聖な祝福に満ちたものであることでしょう! 「御霊の実は愛です。」

愛は神様からの賜物です

もう一度聞きます。 なぜそうでなくてはいけないのでしょうか。私の答えはこれです。愛の賜物なしには愛に満ちた日々の生活を送ることはできないからです。

聖別された生活について語ろうとすると、私たちはしばしば気性について語らざるを得なくなります。時にはこのように言う人もいます。

「あなたは気性について多くを語り過ぎです。」

私は気性について多くを語り過ぎるということはないと思っています。時計と時計の針について少し考えてみてください。時計の針は、時計の中にあるものを示します。もしも針が止まっていたり、間違った時刻を指していたり、時計が遅れていたり進んでいたりしたら、私はその時計は中で何かがうまく動いていないと言うでしょう。気性とは、この時計の針のようなもので、私たちの内側がどうなっているのかを示してくれます。キリストの愛が私たちの心を満たしているかどうかの証明となるのが気性なのです。教会の中や祈祷会で、また主のために熱心に忠実に働いている時の方が、妻や子供や使用人との日常生活を送っている時よりも、聖く幸せであることはよりたやすいことであると感じている人は少なくないでしょう。 家庭の中よりも外での方が、聖く幸せであることはよりたやすいだなんて! 神の愛はどこにあるのでしょうか? キリストの中です。神はキリストを通して素晴しい贖いを私たちのために用意して下さいました。そして神は私たちのうちに超自然的な業をなしてくださろうと願っておられるのです。私たちはそれが完全に成し遂げられるようにと願い、求め、期待することを学んでいるでしょうか?

そしてがあります! 私たちはより良い生活、安らぎのある生活について語る時に、舌についても語ることがありま すが、多くのクリスチャンは舌についてなんと勝手なことを思っていることでしょうか。

「私には自分の好きなことを考える権利がある。」

彼らが互いのことについて話す時、自分たちの隣人について話すとき、他のクリスチャンについて話すとき、どれだけ多くの毒舌がそこには見られることでしょう! 神は私が愛のない言葉を口から発することがないよう助けて下さいます。もしも私が愛のない言葉を語ろうとするなら、神は私の口を閉ざして下さいます。 しかし私が言っていることは事実です。一つの働きを共にするよう召されているクリスチャン同士の間でも、トゲのある批判や判断が飛び交い、軽率な意見や愛のない言葉が発され、互いの背後で侮辱や責任のなすりつけ合いが行われている・・・そういう場面をどれだけ目にすることでしょうか! おぉ、母の愛が子供を覆い、その中に喜びを見い出し、弱点や失敗を限りなく優しい同情心をもって受け入れる・・・ すべての信者の心の中には、キリストにある兄弟姉妹に対して、そのような母性愛があるべきではないのでしょうか?そのようでありたいと願ったことはありますか? それを求めたことはありますか? それを下さいと嘆願したことはありますか? イエス・キリストはこのように言いました、「私があなたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。」しかもイエスはそれを他の戒めと同列には置くことはせず、むしろこう言ったのです。

「これが新しい戒め、唯一の戒めです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

御霊の実が愛であるということは、私たちにとって日々の生活であり、行いです。喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、あなたにはトゲや嫌味がなく、意地の悪さや自己中心もなく、神と人との前に心貧しくへりくだっている・・・ このような愛が具現されたすべての恵みや美徳は、そこからやってくるのです。これらはどれもどちらかといえば柔和な美徳であることがわかりますね。コロサイの「それゆえ、神に選ばれたもの、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(訳注 3:12)の箇所を読むとき、私はしばしば思ったものです、もしも私たちがこのようなことを書いたのであれば、恐らく熱情とか勇気、勤勉といった男性的な美徳を前面に出したであろうと。しかしながら、より優しく、一番女性的と思われるような美徳こそ、このように聖霊に依存するものとして特に関連付けられていることに目を留める必要があるでしょう。実際のところ、これらは神聖なる恵みです。このようなものは異教徒の世界にはそれまで見られなかったものです。キリストはそれらの美徳を私たちに教えるために天からやって来る必要があったのでした。忍耐、柔和、親切こそあなたの祝福、神の御前においてへりくだることこそあなたの栄光です。キリストが十字架につけられた御自身の心から取り出し天から送って下さった御霊が、そして私たちの心へと与えてくださったその御霊が結ぶ実とは、何にも比べ難き最高の愛であるのです。

あなたはヨハネが言ったことをご存じでしょう。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられます。」(訳注 第一ヨハネ4:12)つまり、私たちには神を見ることは出来ないのですが、その代わり、私の兄弟を見ることなら出来、そして私が彼を愛するなら、神は私の中に住まわって下さるのです。それは本当に真実ですか? 私には神を見ることは出来ず、しかし私は兄弟を愛さねばならず、そうすれば神が私の中に住んで下さる? 兄弟を愛することこそ、神との真実の交わりを持つ方法なのです。ヨハネは最も厳粛なテストとして、さらにこのように言いましたね。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(第一ヨハネ4:20)ここに兄弟がいます。最も愛し難いような男です。あなたは彼に会うたびに憂鬱になります。彼はあなたとは正反対の性格です。あなたは慎重な働き人で、彼と共に主の働きに関わらなくてはなりません。彼は大変ずぼらで、とてもミニストリーには向いていないような人です。あなたは言います。

「こんな人は愛せない。」

あぁ、友よ。あなたはキリストが何にもましてあなたに教えたいと願っておられるレッスンをまだ学んではいないのです。彼にはありのままの姿でいさせなさい。あなたはそれでもなお彼を愛すべきです。愛はいつでも、一日中、御霊の実であるのです。そうです、お聞きなさい。もしも人が目に見える兄弟を愛することが出来ないのなら、もしもあなたが目に見える到底愛し難いという人を愛することが出来ないのなら、あなたはまだ見たことのない神を、どうやって愛せるというのでしょう? 愛に満ちた神について麗しい思いを抱くことにより、自分で自分を欺くことは出来ます。しかしあなたは主にある兄弟を愛することで、神に対するあなたの愛を証明しなくてはなりません。これこそが、神があなたの神への愛をはかる基準となるものなのです。もしあなたの心の中に神への愛があるのなら、あなたは兄弟をも愛するはずです。御霊の実は愛です。

神の聖霊が力をもって臨んで下さらないという理由はありますか? それは不可能なのですか?

私が先に述べた器のたとえを覚えていますね。器のかけらにわずかながらの水をたらすことは出来ます。しかしその器を一杯に満たそうとするのなら、それが壊れていてはいけないのです。 そして神の子供たちは、どこで一つに集まろうとも、どのような教会や宣教団体や働きに属していようとも、彼らは熱心に互いに愛し合わなくてはいけません。そうでなければ、神の御霊はその働きをなすことが出来ないのです。私たちは世的であることや、律法主義や形式主義、過ちや無関心などによって神の御霊を悲しませると言いますね。しかし、私はあなたがたに言います、これら何にもまして、一番神の御霊を悲しませるのは、愛の欠如なのです。自分の心を顧みてみましょう、そして神に探っていただきましょう。

私たちの愛は神の力を示します

なぜ私たちは「御霊の実は愛です」と教えられているのでしょうか。それは、神の御霊は私たちの日々の生活を、ご自分の子供たちのために神がなしてくださる神聖なる力と啓示の現われとして用いるためにやって来られたからです。

使徒の働きの第2章と4章では、弟子たちが一つの心、一つの魂になっていたことがわかります。キリストと共に歩んだ3年の間には、彼らがそのような霊を持つことは決してありませんでした。キリストのいかなる教えをもってしても、弟子たちに一つの心、一つの魂を持つよう学ばせることは出来なかったのです。しかし、聖霊が天から下り、彼らの心に神の愛を注いでくださいました。それによって弟子たちは心も魂も一つになることが出来たのです。弟子たちの心を天からの愛で満たして下さったその同じ聖霊に、私たちの心も満たしていただかなくてはいけません。それ以下ではだめなのです。キリストがなさったように、たとえ誰かが3年間天使の舌をもって愛について教えたとしても、聖霊の力が下って人の心を天からの愛で満たしていただかない限り、誰も愛することを学ぶことは出来ないのです。

教会全体について考えてごらんなさい。どれだけ多くの分裂があることでしょう! 様々な教派教団がありますね。聖潔の問題にしても、御血潮の清めの問題にしても、聖霊のバプテスマにしても、これらの事柄が愛すべき信者たちの間に何と多くの違いをもたらしてきたことでしょうか。異なる考え方があること自体は少しも問題ではないと私は思います。私たちは皆、まったく同じ体質を持ち、気質を持ち、心を持っているというわけではないのですから。しかし、神の御言葉から出る最も聖いはずの真理のゆえに、なぜこんなにも憎しみや苦味、侮辱、分離、愛の欠如が生み出されてしまうのでしょうか。 それは、自分たちの教義や信条の方が、愛よりも大切なものになってしまったからです。自分は真理のためには何事にも譲らないのだなどと思い込み、愛を持って真理を語るという神からの命令を忘れてしまうのです。それはルーテル派やカルバン派の教会改革の時にもまさにその通りでした。本来ならば全ての信者がひとつに結ばれる目的で行われるはずの聖餐の儀式に関して、その時どれだけの苦味があったことか。時を経て現在でも同じことです。神の最も麗しい真理が山となり、私たちを分裂させてしまったのです。

もし私たちが力ある祈りをしたいと願うのなら、もし聖霊が力を持って私たちに臨んで下さることを求めるなら、そして神がご自身の御霊を注いでくださるというまさにそのことを欲するのなら、私たちは御国の愛をもって互いに愛し合いますという契約を、神との間に結ばなくてはなりません。

あなたはそうする用意が出来ていますか? 全ての神の子供たち--誰よりも愛し難く、愛に欠け、愛される資格もなく、耐え難く苦々しい存在である子供たち--を愛することが出来るほど十分に大きな真実の愛は御霊から来る愛だけなのです。神に完全に明け渡すという私の誓いに偽りがないのなら、それは同時に、神聖なる愛で自らを満たしていただくこと、そして私の回りにいるすべての神の子供たちを愛する愛の僕になることに対して、自分を完全に明け渡すことを意味するのです。「御霊の実は愛です。」

おぉ、御父の御心とその永遠の愛ゆえにキリストの右の手に聖霊を与えて下さったとき、神は大変素晴しいことをなしてくださいました。それなのに私たちは聖霊を、働きをするときに用いるための単なる力におとしめてしまったとは! 神よ、私たちをお赦しください! あぁ、聖霊が、キリストと神のご性質とその命で私たちを満たして下さる力として、栄光をお受けになりますように!

キリスト者の働きには愛が必要です

「御霊の実は愛です。」もう一度お尋ねします。なぜ御霊の実は愛なのでしょうか? 答えはこれです。この愛こそが、キリスト者がその働きをするに当たって、唯一必要となる力であるからです。 

そうです、私たちに必要なのはこれなのです。私たちを互いに一つに結ぶための愛が必要なだけでなく、まわりにいる失われた魂の救いのために働くにあたってもこの神聖なる愛が必要なのです。おぉ、ちょうど人々が博愛精神に基づく事業を請け負うかのように、私たちもまた、同胞に対する自然な同情心からどれだけ多くの働きを自分の力でなそうとしてしまうことでしょう。 ただ牧師や友人に頼まれたからというだけで、私たちがキリスト者としての働きを往々にして安易に請け負ってしまわないでしょうか? そして、私たちはある種の情熱を持ちつつも、愛のバプテスマを受けることはなしに、キリスト者としての働きを行ってしまうことが珍しくないのではありませんか?

このように聞く人たちがよくいます。「火のバプテスマとは何ですか?」私が次のように答えたことは一度ではありません、「神の火とは、カルバリで捧げられたいけにえを焼き尽くした永遠の愛の火であり、そのような火を私は他に知りません。愛のバプテスマこそ教会にとって必要なものであり、それをいただくためには告白をもって神の御前にただちにひれ伏し、このように嘆願するのです。『主よ、天からの愛を私の中に注ぎこんでください。永遠の愛が私を満たし、私のうちにとどまってくださるように自分自身を放棄したものとして私が生き、また祈るために私の命を明け渡します。』」

あぁ、そうです、もしも神の愛が私たちの心にあったのなら、どれだけ違ったものになっていたでしょう! 次のようにいう信者はいくらでもいます。

「私はキリストのために働いています。もっと一生懸命働けるような気がするのですが、私には賜物が与えられていません。私はどこからどのようにして始めたらいいのかわからないのです。私に何ができるのかすらわかりません。」

兄弟姉妹よ、神があなたに愛の御霊のバプテスマを授けて下さるよう求めなさい。そうすれば愛があなたのなかにやってくるでしょう。愛は全ての困難を焼き尽くす炎です。あなたは人前で話すことが苦手で、消極的な恥ずかしがり屋さんかもしれませんね。しかし愛は全てを焼き尽くしそこに道を作るのです。神よ、私たちを愛で満たして下さい! 働きのためにそれが必要なのです。

あなたは心を打つような愛の話を何度も聞いたことがあるでしょう。そしてこのように言ったこともあるでしょう、「なんと美しい!」私はしばらく前にこのような話を聞きました。大勢の貧しい女性たちが住んでいる養護施設で講演をするよう頼まれていたある婦人がいました。彼女が施設に到着して、院長と窓際で話しをしてると、外に見るからに薄汚ない人が座っているのが見えたのです。「あれは誰ですか?」彼女が聞くと、院長は答えました。「彼女はこの施設に30回か40回くらい入ったことがあるのですが、そのたびに逃げ出してしまうのです。いろいろ手を尽くしたのですが、どうしても彼女を助けることが出来なくて・・・ とてもかたくななのです。」

しかしその婦人は言いました。「彼女も中に入らなくてはいけません。」院長は答えました。「私たちはずっとあなたをお待ちしていたんですよ。もうみんな集まっていますし、講演の時間は全部で1時間しかないのです。」婦人は答えました。「いいえ、これはもっと大切なことです。」そして外へ出てそのみすぼらしい女性が座っているところへ行き話しかけて言いました。

「姉妹よ、どうしたのです?」

「私はあなたの姉妹ではありません。」それがその女性の返答でした。

婦人は彼女の上に自分の手を置くと、このように言いました。「いいえ、私はあなたの姉妹ですよ。そして私はあなたを愛しているのです。」婦人はその哀れな女性の心に触れるまで、そのままずっと語り続けました。

会話はしばらく続き、その間中の会衆は辛抱強く待っていました。そして最後にやっと婦人はその女性を中に連れて来ることが出来ました。その女性は見るからにみすぼらしく、薄汚なく、みじめでした。彼女は椅子には座ろうとしなかったのですが、婦人が講演するかたわらにスツールを置き、そこに座りました。婦人はその女性が彼女に寄りかかるままにさせ、講演の間中、自分の腕を哀れな女性の肩にまわしていました。その愛は女性の心に触れ、彼女は本当に自分を愛してくれる人を見い出すことが出来ました。そしてその愛を通してさらにイエスの愛をも知るようになりました。

神を賛美いたします! この地上においても、神の子供たちの心の中に愛はあるのです。しかし、あぁ、もっとあるはずだったのです!

おぉ神よ、私たちの牧師たちに、宣教師たちに、伝道師たちに、聖書を読む人たちに、働き人に、青年会や婦人会の人達に、柔らかな愛でバプテスマを授けてください。あぁ、神よ、今、私たちから始めてください! 私たちに、御国の愛でバプテスマを授けてください!

愛はとりなしの心を与えます

再び言います。愛だけが私たちをとりなしの働きのために整えることが出来ます

愛によって私たちは働きのために整えられなくてはならないと言いました。この罪深い世界のためになされなくてはならない、最も難しくて最も大切な働きは何であるかご存じですか? それはとりなしの働きです。神の御前に出て、神と話すために時間を取るという働きです。

ある人は熱心なクリスチャンまたは熱心な牧師であるかもしれません。そしてよい行いをしているかもしれません。しかし、あぁ! そのような人であっても、祈りにおいて神を待ち望むということがどのようなことであるかについてほとんど知らないことを告白せざるを得ないということが、どれだけ多くあることでしょうか。神が素晴しいとりなしの霊、すなわち祈りと願いの霊の賜物を、私たちに与えて下さいますように! イエスの御名によってあなたがたにお願いいたします。全ての聖徒や全ての神の民のために祈ることなくして過ぎる日が一日もないようにしてください。

このようなことについてほとんど考えないクリスチャンもいるようです。特定のメンバーのために祈る祈りの群れはあっても、全ての信者のためには祈っていないようです。あなたがたがキリストの教会のために時間を取って祈ってくださいますように。また、すでに述べたように、異教徒のために祈ることも正しいことです。彼らのためにもっと祈れるよう、神が助けて下さいます。宣教師や伝道の働き、また未信者のために祈ることも正しいことです。しかし、パウロは異教徒や未信者のために祈るようにとは勧めませんでした。パウロは人々に信者のために祈りなさいと言ったのでした。これをあなたの日々の一番の祈りにしてください。「主よ、あなたの全ての聖徒を祝福してください。」

キリストの教会の現状は、筆舌に尽くし難いほどにみじめなものです。神がご自身の民を訪れて下さるよう神に嘆願してください。お互いのために祈り合い、神のために仕えようとしている全ての信者のために祈ってください。愛があなたの心を満たしますように。キリストが日毎に新しい愛をあなたがたのうちに注いで下さるようお願いしましょう。神の聖霊によってそれがあなたのうちに入ってくるよう努めましょう。私は聖霊のために聖別されており、御霊の実は愛なのです。私たちがそれを理解できるよう、神が助けて下さいますように。

私たちが一日、一日、静かに神を待ち望むことを学べるようにしてくださいますように。自己中心的な思いから待ち望んではいけません。さもないとそうするための力はそのうち失われてしまいます。むしろ、主のための働きととりなしの愛のために自分を明け渡しましょう。そしてもっと神の民のために祈りましょう。私たちの周りにいる神の民のために祈り、愛の御霊が私たちのなかに、また彼らのなかに注がれるよう祈り、私たちが召されている神の働きのために祈りましょう。そうすれば、答えは必ず与えられます。そうすれば神を待ち望むということは、私たちにとって、言葉では表わせないほどの祝福と力の源になることでしょう。「御霊の実は愛です。」

あなたは愛が欠けていることを神に告白すべきではありませんか? それならば今このように言って告白しましょう。「あぁ主よ、私の心には、また愛には、欠けたところがあります。私はそれを告白します。」
そして、主の足元にあなたの愛の欠如を投げ捨てるその時に、御血潮があなたを聖めてくださることを信じ、イエス様がその力強い、聖めと救いの力をもってあなたを解放するために来てくださり、そしてあなたに神の聖霊を与えてくださることを信じましょう。

「御霊の実は愛です。」


翻訳 中村佐知
Copyright(C) 2000 by Sachi Nakamura

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