ホームグレースライブラリー人には出来ないことが、神には出来る

完全な明け渡し(Absolute Surrender)

by
アンドリュー・マーレイ(Andrew Murray)
初版:1895年 シカゴ ムーディプレス

「人には出来ないことが、神には出来る」 
(Impossible with Man , Possible with God)

イエスは彼らに言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」 

ルカによる福音書18章27節

キリストは金持ちのある若い役人にこう言いました。「あなたの持ち物を全部売り払い、そのうえでわたしについて来なさい。」その若い男は非常に悲しんでその場を去っていきました。それからキリストは弟子たちに向かってこのように言いました。「裕福な者が神の国にはいることは何と難しいことでしょう!」それを聞いた弟子たちがいかに驚いたかは、彼らの次の返事から読み取れます。「神の御国に入るのがそんなにも難しいのなら、一体誰が救われることが出来るでしょう?」するとキリストはこの素晴らしい答えをなさったのです。

「人には出来ないことが、神には出来るのです。」

この言葉には二つの考えが含まれています。一つは、信仰生活における、救いの問題や、聖い生活を送ることによってキリストに従うということは、人の力では実行不可能なことであるということ。もう一つは、人には不可能なことが神には可能であるということです。

この二つの考えは、信仰生活において人が学ばなくてはならない大切なレッスンであります。一つめのレッスン、すなわち信仰生活において、人の力で出来ることは何もないということや、救いは人の力では達成出来ないということを学ぶには、たいていの場合長い時間を要します。また、たとえそのレッスンを学んでも、二つめのレッスン--すなわち自分の力では不可能なことが神には可能であるということ--は学ばない場合がほとんどなのです。この両方のレッスンを学ぶ者はなんと幸いであることでしょう! これらの学習は、クリスチャンの生活において段階的に起こります。

人には出来ない

第一の段階は、人が自分の最善を尽くして失敗し、何とかしてもっと上手くやろうとして尚も失敗し、もっともっと頑張ってやってみて、それでもいつも失敗に終わってしまうときのことです。それにもかかわらず、神とキリストに仕えることは人の力で出来ることではないというレッスンを、その人が学べていないということが極めて多いのです。ペテロはキリストの学校で3年費やしましたが、それでも不可能だ、ということを決して学びませんでした。ペテロが自分の主を三度知らないと言い、外に出て激しく泣いたその時になってようやく学んだのでした。

このレッスンを学んでいる過程にある人のことをちょっと見てみましょう。はじめは彼はそれを受け入れることが出来ず激しくもがきます。次にその人は嫌々ながら絶望のなかで、ようやくそのことを認めるようになり、最後についに喜びをもって自らそれを受け入れるようになります。キリスト者の歩みの初めにおいて、回心したばかりの若いクリスチャンにはこの真理がまったく理解できません。回心したばかりで、心に主の喜びをもち、競争を走りはじめ、戦いを戦い始めます。彼は当然自分が全てに打ち勝てると思っています。なぜなら彼は熱心で正直で、そして何より神が彼を助けてくださるからです。しかしながら、まもなく彼は思いもかけないところでどういうわけか失敗してしまいます。そして罪が彼を打ち負かしてしまうのです。彼はがっかりしますが、このように思います。「私は十分に気をつけていなかったからだ。私は十分に強い決意をしていなかったのだ。」彼は再び誓い、再び祈ります。けれどそれでも失敗するのです。彼はこう思います。「私は新生された人となったのではなかったのだろうか?私には神の命が内住しているのではなかったのか?」そして彼は再び考えます。「そうだ、キリストが私を助けてくださるではないか。私は聖い生活を送ることが出来る!」

後になって、彼は別の気持ちになります。そのような聖い生活など不可能であるとわかり始めるのです。しかし彼はそれを受け入れようとはしません。「私には出来ない」という段階にまで到達するクリスチャンは大勢いますが、神が彼らに不可能なことを期待されるはずがないと思ってしまうのです。もしも神はそれを期待しておられますよと言おうものなら、それは彼らにとって謎のごとく思われるのです。多くのクリスチャンが惨めな生活をおくっています。休息と勝利に満ちた生活のかわりに失敗と罪に満ちた生活を送っているのです。なぜならば、「私には出来ない、それは不可能だ」ということが、だんだんとわかってくるからです。それでも彼らはそのことを完全には理解することが出来ず、それゆえに、「私には出来ない」という思いに捕われ、絶望に身を委ねてしまうのです。彼らは彼らなりに最善を尽くすのですが、どうせそう遠くまでは前進できないとあきらめてしまうのです。

しかし神はご自分の子供たちを第三の段階へと導かれます。それは人がこの「不可能だ」という真理を完全に受け入れつつも、同時に「私はしなくてはならないし、それを行う意志もある・・・人には不可能なことだけれど、それでも私はしなくてはならないのだ」というとき、新生された意志がその力を完全に働かせ始め、激しい切望をもって神にむかって「主よ、これは一体どういう意味なのですか? 私はどのようにしたら罪の力から自由になることが出来るのでしょうか?」と祈り叫び始めるときなのです。

これがローマ人への手紙の7章で見られる新生された人の状態です。ここにおいて、キリスト者が聖い生活をおくろうとして自分に出来うる限りのベストを尽くそうとしているのを見ることができます。神の律法がその人に現わされ、そして心の願いの一番奥底にまで届き、彼はついに心からこのように言えるようになります。「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいます。善を為そうという意志が私の中にはあります。私の心は神の律法を喜び、私の意志はその律法を行うことを選んでいるのです。」

このように心には神の律法を喜ぶ思いが満ち、その意志は善を行おうと決心しているような人であっても失敗することはあり得るのでしょうか? あり得ます。それがローマ人への手紙7章が私たちに教えていることです。ここにさらに必要なことがあるのです。内なる人が神の律法を喜び、神の御心を行おうと決心するだけでなく、神の全能の力に私たちの内で働いていただかなくてはならないのです。それこそが使徒パウロがピリピ人への手紙二章13節で教えていることです。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」

ローマ人への手紙7章とのコントラストに注目してください。ローマ7章では新生された人が「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが出来ない」と言っていますが、ピリピ2章では、さらに先まで導かれた人がいるのです。すなわち、神が志を立てさせて下さるのであるならば、その志が願うところを実行するための力を神は与えて下さるのだと理解出来た人です。このことを、私達の霊的な生活における第一の大切なレッスンとして受け取ろうではありませんか:「わが神よ、それは私には不可能なことです。肉と肉のもつ全ての力、また私の自我に終止符を打たせて下さい。そして無力であることこそ私にとっての栄光となさしめてください。」

私たちを無力のものとしてくださる神の教えのゆえにその御名を賛美いたします!

神への完全な明け渡しということを考えたとき、あなたは自我に終わりを告げ、日々の一瞬一瞬において、食卓で、家庭で、仕事で、試練や誘惑のまっただなかで、神に完全に明け渡されている人として生活することが現実に可能であるとわかると感じるところまで導かれたのではありませんでしたか? あなたが今このレッスンを学ぶよう祈ります。もしもあなたには出来ないと感じたのでしたら、さらに神にあなたを導いていただいてください。そうするとき、あなたは正しい方角に進んでいるのです。自分の置かれている立場を受け入れ、それを神の前に保持してください。「神よ、私の心の願いと喜びは、あなたへの完全なる明け渡しです。しかし私はそれを自分で実行することが出来ません。そのような生活を送ることは私には不可能なのです。私の能力を超えています。」あなたが全くもって無力であるとき、神があなたのうちに働いて、願いを起こさせてくださるだけでなく、それを行うことも可能にして下さるということを、神の御前にひれふして学びなさい。

神には出来る

次に来る二つ目のレッスンはこれです。「人には不可能なことも神には出来る。

人には不可能であるというレッスンを学ぶところまで来たものの、それでも無力な絶望のうちに諦め、喜びも力も勝利もない惨めなクリスチャン生活を送っている人が大勢いると述べました。これはなぜなのでしょうか? なぜならば、そのような人は「神には全てのことが可能である」というもう一つのレッスンを学ぶために自らをへりくだらせていないからです。

あなたの日々の信仰生活は、神が不可能のうちに働かれるお方であることの証明であるべきです。あなたの信仰生活は、神の全能の力によって不可能が可能とされ現実のものとなることの連続であるべきなのです。これこそクリスチャンが必要としているものです。クリスチャンは全能の神を礼拝しています。神の力がわずかばかりあればいいというのではなく、--畏敬の念をもってこう言いましょう-- まっすぐに立ち、クリスチャンとして生きていくためには、全能の神の全てが必要であることを理解し、学ばなくてはなりません。

キリスト教とは、それ全てが神の全能の業によるものなのです。キリスト・イエスの誕生をごらんなさい。これは神の力による奇跡であり、マリアがこう言った通りでした。「神にとって不可能なことは一つもありません。」神の全能の力です。キリストの復活を見てごらんなさい。神がキリストを死者から蘇らせたのは、神の全能の力の働きによって働く神のすぐれた力であると私たちに教えられている通りです。

木は全て、それが発芽した根から伸びて成長しなくてはなりません。樹齢300年の樫の木は、それが最初に芽を出したそのひとつの根をもとにずっと成長し続けたのです。キリスト教はその始まりが全能の神にあるのですから、全ての魂のなかでその神の全能が受け継がれていなくてはなりません。より高度なクリスチャン生活が可能になるためには、私たちのうちで神の御心全てを働かせてくれるキリストの力について、まず私たちが新しく理解する必要があるのです。

全能の神を礼拝するために進み出てくるよう、私は皆さんを今、お招きしたいと思います。あなたはもう神を礼拝するために前に進みでるとはいかなることか学びましたか? 神の全能があなたの中で働いていることがわかるほどに、偉大なる神と近くに交わることを、あなたはもう学びましたか? たいていの場合、外から見てもそれはほとんどわからないものです。使徒パウロは言いました、「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、・・・御霊と御力の現われでした。」人間の側から見ればそこには弱さがありましたが、神の側からは神の全能があったのです。そしてこのことは、全ての信仰者の歩みにおいても真実です。もし私たちがこのレッスンをもう少しよく学ぶことが出来、心から、わき目もふらずただ神に自らを明け渡すことをするのなら、全能の神といつでも共にいるということがどんなに素晴らしい祝福であるかを知ることが出来るはずなのです。神の全能とはどのようなものであるのか、あなたは聖書から学んだことがありますか? この世界を創造し、闇から光りを造り、さらに人間を造ったのは神の全能の力であったことは御存じですね。しかし、贖いの業を成し遂げるのもまた神の全能の力であることをあなたは学んだことがありますか?

アブラハムを御覧なさい。キリストが生まれる家系の人々の父となるよう神がアブラハムを召したとき、神は彼にこのように言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」そして神は、アブラハムが神を全能者として信頼出来るようになるまで訓練しました。それゆえに、自分がまだ知らない土地を得るために出ていくことであろうと、大勢のカナン人のなかに信仰をもって巡礼者として入っていくことであろうと、彼は信仰によりこう言いました、「これはわたしの土地だ。」あるいは、年老いて、とても子供など望めないような状態で25年もの間息子が与えられるのを待つことであろうと、モリヤ山でイサクを捧げものとして差し出そうとしたときに、イサクが死から起き上がらせてもらうことであろうと、アブラハムは神を信じたのです。彼の信仰は強く、神に栄光を帰すものでありました。なぜならば、アブラハムは神こそが約束されたことを実行してくださるお方であると信じたからなのです。

あなたのクリスチャン生活の弱さの原因は、神に手伝ってもらおうとしながらも、なおあなたが自分で半分手をかけているところにあるのです。それは出来ません。神に働いていただくためには、あなたは完全に無力にならないといけないのです。そうすれば神は素晴らしく事を行ってくださるでしょう。私たちが真に神の働き人となりたいのであれば、これこそがまさに必要なことなのです。モーセがいかにイスラエルの民をエジプトから脱出させることが出来たのか、ヨシュアがいかに彼らをカナンの地に導き入れたのか、さらに旧約聖書に出てくる神の僕たちが、みな不可能を行うにあたって、いかに神の全能に頼っていたのか、私は御言葉を通してあなたがたにひとつひとつ示すことが出来ます。 そして、この同じ神が今日も生きておられるのです。この同じ神が、神の子供たちひとりひとりの神であられるのです。にもかかわらず、私たちは自分で全力を尽くしている間は神にはほとんど手伝っていただこうとしません。本来なら神が私たちに願っておられるのは何であるのかを理解し、「私には何もできない。神になしていただくほかにはないし、神は全てをなして下さるであろう」というべきなのです。 あなたがたはこのように言ったことがありますか?「礼拝において、奉仕において、聖化において、神への従順において、私が自分で出来ることは何もない。ゆえに私がなすべきことは、ただ全能の神を崇め讃え、神がいつでも私のなかで働いて下さることを信じるのみだ。」 おお、どうか神がこのことを私たちに教えて下さいますように! おお、その恵みによって、私たちがどんなに素晴らしい神を持っているのか、どんなに素晴らしい神の御手に自分自身を委ねているのか、わからせて下さいますように! それが全能の神であり、神の子供たちひとりひとりのためになら、いつでもご自身全ての全知全能を私たちのうえに注いで下さる用意の出来ておられるお方であるのだと、私たちが知ることが出来ますように! 主イエスからの学びをいただき、こう言おうではありませんか!「アーメン、人には出来ないことも、神には出来る!」

ペテロの自信過剰や自力本願や強情について、また彼がいかにして彼の主を否定することになったかについて、私たちが何と言っていたか覚えておられますか?「あぁ、ここに自我の生活がある!ここに私を支配している肉の生活がある!」そのように感じたのでしたね。では今は、そこからの解放があることを信じますか? 全能の神は、自我の生活がもはやあなたの上に力や支配を持つことがないよう、キリストをあなたの心に示し、聖霊があなたを支配するようにしてくださることが出来るのだと信じますか? あなたはこの二つを合わせて、忍耐の涙と深い謙遜と弱さをもって、「あぁ神よ、私には不可能です。人には出来ません。しかし、栄光があなたの御名にありますように! それは神には可能なのです!」と叫んだことがありますか? 解放を宣言しましたか? 今それを行いなさい。 無限の愛の神の御手に自分自身を今、もう一度、完全に明け渡しなさい。神の愛が無限であるのと同様に、そのことを私たちになして下さる神の力もまた無限なのです。

神は人の中で働かれる

ここで再び、私たちは完全なる明け渡しの問題にやってきました。これこそがキリストの教会において欠けていることであり、それゆえに聖霊は私たちを満たすことが出来ず、また聖霊に対して完全に聖別された人々として生きることも出来ず、結果として肉と自我の生活を克服することができないのでした。私たちはイエスが神に対して完全に明け渡されていたように、自分もまた神に対して完全に明け渡されているということがどのようなものなのか、今だかつて理解したことがないのです。大勢の人が熱心に、また正直に「アーメン、私は神への完全な明け渡しのメッセージを受け入れます」と言うのです。しかし、それでもまだ「これは本当に私のものになるのだろうか? 神は本当に私を、天においても地においてもまた地獄においても、完全に神に明け渡された者として生きる、と言われる者の一人に変えて下さるのだろうか?」と疑ってしまうのです。 神がキリストにあってあなた方を御手のなかに持って下さる時に、神があなたを完全な明け渡しの人と変えて下さることは可能であると信じて下さい。しかも神はそれを保って下さいます。神は、直接的であれ間接的であれ「私は神の御手の中にある。私の神が私のために私の生活を成し遂げて下さるのだ」という祝された思いをもってあなたが毎朝ベッドから起き上がることが出来るようにしてくださるのです。

聖化について考えるのも疲れてしまったという人もいますね。あなたは祈りました。それを願い、求めて叫びました。それなのに、それはあたかもまだまだ手の届かないところにあるかのように見えます。イエスの聖さと謙遜--あなたはそれがどんなに遠くにあるのかよくわかっているのですね。愛する友よ、聖書的で、本物で、有効な聖化の教義とは、このようなものです。「人には出来ないことも神には出来る。」神には人々を聖めることが出来るのです。その全能の聖化の力によって、神は人々を、毎瞬毎瞬支えることが出来るのです。 おお、今、私たちが一歩でも神に近付くことが出来ますように!おお、神の光りが輝き、私たちがよりよく神を知ることが出来ますように!

私たちのうちにあるキリストの命について --キリストのように生き、私たちの罪からの救い主として、また私たちの命と力として、キリストをいただくことについて-- 私はいくらでも語ることが出来ます。そのことについてあなたがたに教えてくださるのは天にいらっしゃる神ご自身です。使徒パウロは何と言って祈りましたか?「その栄光の豊かさに従い」--神ご自身の栄光の豊かさに従ってであるなら、それはとてつもなく素晴らしいものであるに違いありませんね? --「力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」--キリストが私たちの内住の救い主となってくださるために、神を信じる子供たちの心のなかで全能の力をもって働いて下さるのは、まさに全能の神ご自身であるということがわかりませんか? あなたはそのことを理解し、納得しようとして努力してきました。そしてそれを信じようと努めました。それでもまだだめだったのです。それはあなたが「人には出来ないことも神には出来る」ということを信じるところまで来ていなかったからなのです。

ですから、愛について語られた御言葉が、多くの人々に次のことを理解させてくださるよう信じます。それは、私たちの心に全く新しい方法で注ぎ込まれる愛が必要であること;私たちの心から一日中愛が溢れ出てくるためには、私たちの心は上からの、永遠の命の泉からの命で満たされていなくてはならないこと;そうすれば、羊がおとなしく狼が残酷であるのが極めて自然なことであるように、私達もまた極めて自然に周りの人々を愛することが出来るようになるのだということです。人が私を憎み悪口を言えば言うほど、その人が不愉快で愛するに足らない人であればあるほど、私は増々彼を愛するようになる、というような状態に私がなるまで、また、障害と憎しみと恩知らずがあればあるほど、私のなかで愛の力が増々大勝利を得るのだというような状態になるまで、 -- そのような状態にまでなるのでなければ、私はまだ「人には不可能だ」と言っていないのです。しかし、もしもあなたが「このメッセージは私の力を完全に越えた愛について私に語っている、それはまったく不可能だ」と言えるところまで導かれたのであれば、私たちは神の御前に出てこう言えるのです。「あなたにはそれは可能です。」

多いなるリバイバルを求めて神に向かって叫んでいる人たちもいます。それは私にとっても決して途切れることのない祈りであるといえましょう。あぁ、もしも神が彼を信じる人々をリバイブしてくださるのなら!まだ回心していない形式主義者や異教徒や懐疑家たち、あるいは私の周りにいるみじめな滅びゆく人々のことをまず最初に考えることは出来ません。私の心はまず最初にこのように祈るのです。「我が神よ、あなたの教会とあなたの民をリバイブしてください!」何千もの魂が聖さと聖化を切に求めているのにはわけがあるのです。それは神の力の現れに先立つものだからです。神はまず私たちに願いを起こさせ、それからそれを実行させてくださるのです。人々が切に求めているということこそが、神がすでに私たちの心に働いて願いを起こさせてくださったことの証明でありしるしなのです。おぉ、全能の神がその民の間で、私たちが願い求める以上に働いてことをなさせて下さることを、信仰を持って信じましょう。 パウロは言いました、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に・・・栄光がありますように。」私たちの心もそのように言うべきです。全能者であるお方、私たちの願うところ思うところを越えて施すことの出来る神に、栄光がありますように!

「人には出来ないことも神には出来る。」あなたがたのまわりには罪と悲しみの世界が広がっており、そこにはサタンが存在しています。しかし、忘れないでください。キリストが御座についておられ、キリストは敵よりも強く、キリストはすでに勝利を得ておられるし、これからも勝利を得られるのです。ただ神を待ち望むのです。「人には出来ないこと」というこの御言葉は私たちを落胆させます。しかし、究極的には私たちは高くあげられるのですから--「神には出来る。」神とつながりなさい。全能のお方である神を讃え、信頼しましょう。それはただあなたの人生のためだけではなく、あなたにゆだねられている全ての魂のためにそうすべきです。「力ある神よ、あなたの全能の御力を、私のうえにいただくことを宣言いたします」、そう言って全能の神を讃えることなしに祈ってはいけません。そうすれば、その祈りに対する答えは必ず来ます。そしてアブラハムのようにあなたの信仰は強められ、神に栄光が帰されるのです。あなたが、それを為すと約束して下さったお方のもとに自分自身をお任せするからです。


翻訳 中村佐知
Copyright(C) 2000 by Sachi Nakamura

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