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完全な明け渡し(Absolute Surrender)
by
アンドリュー・マーレイ(Andrew Murray)
初版:1895年 シカゴ ムーディプレス

「ペテロの悔い改め」 (Peter's Repentance)
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は外に出て激しく泣いた。
ルカによる福音書22章61、62節
これはペテロの生涯における転機でした。キリストは彼に「あなたは今はわたしに従うことは出来ない」とおっしゃっていました。ペテロは、自分自身と決別するところまで来ていなかったため、キリストに従うにふさわしい状態にはなかったのです。彼は自分の状態を理解しておらず、そのためキリストに従うことが出来なかったのです。しかしペテロが外に出て激しく泣いたとき、大きな変化が訪れました。キリストはその前に「あなたが改心
[converte]したときには、 兄弟たちを力づけてやりなさい」とペテロに語っていましたが、ここでペテロは自己からキリストへと改心したのです。
私はペテロの物語を神に感謝いたします。聖書のなかで、ペテロほど私たちに大いなる慰めを与えてくれる人物がいるでしょうか? 彼のこの失敗だらけの人物像を見、またキリストが聖霊の力によっていかに彼を変えたかを見るとき、そこには私たち一人一人への希望が見い出せるのです。しかし忘れないでください。キリストがペテロを聖霊で満たし、新しい人へと造り変えることが出来るようになる前に、彼は外へ出て激しく泣かなければならなかったのです。彼は自らをへりくだらせなければならなかったのです。これを私たちが理解しようというなら、次の4つの点に目をとめる必要があります。第一に、キリストの献身的な弟子としてのペテロを見てみましょう。次に、自我の生活を送るペテロを、さらに悔い改めの中にあるペテロを、そして最後にキリストが聖霊によってペテロをどのように変えたのか見てみましょう。
キリストの献身的な弟子としてのペテロ
キリストは、網を捨て彼に従うようにとペテロを召しました。ペテロはただちにそのようにし、その後このように主に正しく言うことが出来ました。
「私たちは全てを捨て、あなたに従いました。」
ペテロは完全な明け渡しの人でした。彼はイエスに従うために全てを投げうったのです。ペテロはまた従順を辞さない人でもありました。キリストが「深みに漕ぎ出して、網をおろしなさい」とペテロに言ったときのことを覚えていますね。漁師のペテロはそこには魚は一匹もいないということを知っていました。一晩中その場所で網をおろしていたにもかかわらずまったく収穫がなかったからです。しかし彼は言いました。「おことばどおり、網をおろしてみましょう。」 彼はイエスの言葉に従ったのです。さらに、彼は偉大な信仰の人でした。彼はイエスが湖の上を歩いているのを見たとき、「主よ、もしあなたでしたら、あなたのもとへ来るようにと私にお命じください」と言いました。そしてキリストの声に、船から足を踏み出し水の上を歩いたのでした。
そして、ペテロは霊的洞察力の人でした。キリストが弟子たちに「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と尋ねたとき、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えることが出来ました。(訳注:マタイ16:16)するとキリストは言いました、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」そしてキリストはペテロのことを岩の人と呼び、彼に御国の鍵を与えると語ったのです。ペテロは素晴しい人物であり、献身的なイエスの弟子であり、もしも今日彼が生きていたとしたら、誰もが彼のことを成熟したクリスチャンであると言ったことでしょう。 それにもかかわらず、ペテロにはまだ欠けた部分があったのです!
自我の生活を送るペテロ
キリストが、「このことをあなたに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とペテロに言語った直後のことを思い出して下さい。キリストはご自分がこれから受ける苦しみについて語り始められたのですが、それに対してペテロは「とんでもないことです、主よ。そんなことがあなたに起こるはずがありません」などと言ってしまったのでしたね。 その時、キリストはこのように言わざるを得ませんでした。
「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
頑なに自分の思いを通し、自らの知恵に頼り、そしてキリストが死ぬために行ってはならないと禁じてしまったペテロの姿がそこにありました。それはどこから来たのでしょうか。ペテロは神の事柄に関して、自分自身と自分の考えに頼ったのです。後に見ますが、弟子たちの間で、誰が一番偉いかという議論がなされたのも一度だけではありませんでしたし、ペテロもそのように議論したうちの一人でした。そして彼は自分こそ一番の地位を得て当然だと思っていたのです。彼は他の者よりも自分の栄誉を先に求めました。それがペテロのなかに強く存在していた自我なのです。彼は、船や網は後に残しましたが、古い自分の姿はまだ握ったままだったのです。
キリストがご自分の受難についてお語りになり、ペテロに向かって「下がれ、サタン」と言われたとき、キリストはその後すぐにこのようにおっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追い、そしてわたしについて来なさい。」これをしない限りは誰もキリストについて行くことが出来ないのです。自我は完全に捨て去られなくてはなりません。自我は無視され、自我が要求するすべてのことは拒絶されなくてはならないのです。これが真の弟子の根幹です。しかし、ペテロはそれを理解しておらず、それに従うことも出来なかったのです。そしてどうなりましたか? 最後の晩が来たとき、キリストはペテロに言いました。
「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
しかしなんという自信を持ってペテロはこう答えたことでしょう、「たとえ全ての人があなたを見捨てたとしても、私は違います。私はあなたと共にどこまでもついて行きます、牢獄から死に至るまでも。」
ペテロは正直にそう思い、本当にそのようにするつもりだったのでしょう。しかし彼は自分のことをわかってはいませんでした。彼は、自分がイエス様がおっしゃるほどひどいとは思っていなかったのです。
私たちは恐らく、神と自分の間に来る個々の罪については考えるのでしょうが、しかし私たちのまさに本性ともいえる、このまるで清くない自我の生活についてはどうするのでしょう? 完全に罪の支配下にある肉についてはどうするのでしょう? それからの解放こそ私たちにとって必要なことなのです。ペテロはそれをわかっていませんでした。それゆえに彼は自分の自信のままに進み行き、その結果自分の主を否定することになったのです。
キリストが「捨てる[deny]」という言葉を二回使っていることに着目してください。彼はペテロに一回は「自分を捨てなさい[deny
self]」といい、もう一回は「あなたは私を捨てる[Thou wilt deny me]」といいました。二つに一つです。私たちに選択の余地はありません。私たちは、自分を捨てるか、キリストを捨てるかのどちらかなのです。罪の力のもとにある生まれながらの自己と、神の力のもとにあるキリスト、これらの互いに拮抗する二つの大きな力が存在しているのです。これらのうちどちらかが私たちを治めることになるのです。
悪魔を作ったのは自我でした。彼は神の御使いでしたが、彼は自分を高めたかったのです。そして[a Devil in Hall]となりました。自我こそが人間の堕落の原因だったのです。エバは自分のために何かを欲しいと願い、それにより人類最初の親たちは罪の悪辣さの中に落ちていく羽目となったのです。彼らの子供である私たちもまた、罪の恐るべき本性を受け継いでいるのです。
ペテロの悔い改め
ペテロは主を三度否定しました。それから主はペテロを見たのですが、そのイエスの表情がペテロの心を砕きました。そしてその時、彼が犯した恐るべき罪が、恐るべき失敗が、落ち込んでしまったその深みが、ペテロの前にただちに開かれ、そして「ペテロは外に出て激しく泣いた」のです。
おぉ! その悔い改めがどのようなものであったか、誰にわかるでしょう? その晩の後、次の日、キリストが十字架につけられ埋葬されるのを見たとき、そしてその次の日、安息日---おぉ、ペテロはどれだけの絶望と恥のなかでその日々を過ごしたことでしょう!
「私の主はいなくなってしまった。私の希望も失われた。しかも私はわが主を否定してしまった。神よ、私を憐れみたまえ!」
ペテロがその時どれだけ屈辱の深みに沈んでいったのか、私たちには到底知り得ないだろうと思います。しかし、その時が転機であり変化の時だったのです。そして週の最初の日にキリストはペテロに会い、またその晩に他の弟子たちとも会いました。後にガリラヤ湖でキリストは「あなたはわたしを愛しますか?」と3度ペテロに尋ねました。ペテロがキリストを3度否定したことを自分に思い起こさせているのだと思い彼は悲しくなってしまったのですが、悲しみのなかで、しかしはっきりと、こう答えたのです。
「主よ、あなたは全てをご存じです。あなたは私があなたを愛していることをご存じです。」
変えられたペテロ
今やペテロは自我からの解放のために整えられたということ、それが私が指摘したい最後の点です。あなたはキリストがほかの者たちと共にペテロを御座の足元に連れて来られ、そこで待つように命じられたことをご存じですね。そしてそれからペンテコステの日に聖霊が下り、ペテロは変えられた人とされたのです。ただペテロの中におきた変化だけを考えないでください。その大胆さ、その力、そして御言葉に関する洞察力やその日彼が説教したときに与えれていた祝福といったことだけを考えないでください。それはそれで感謝すべきことです。しかし、ペテロにとって、それ以上にもっとずっと深くて素晴しいものがありました。ペテロの性質全体が変えられたのです。キリストがペテロを見たその時に彼の中で始められた働きは、ペテロが聖霊に満たされたときに完成されたのです。
もしそれを知りたければ、ペテロの第一の手紙を読んでごらんなさい。ペテロがどの点で失敗したかわかっていますね。彼がキリストに要するに「あなたは決して苦難にあわれることはありません、あうものですか」と言った時でした。ペテロの言葉は、死を通して命に至るということがどのようなことであるのか、彼が理解していなかったことを表わしていました。キリストは「自分を捨てなさい」と言われました。しかしそれにもかかわらずペテロは自分の主を捨てたのです。キリストが「あなたは私を捨てます(訳注 新改訳聖書では「知らないと言います」)」とペテロに警告し、ペテロが決してそんなことはありませんと言い張った時、彼が自分のなかにあるものが何なのか、いかに理解していないかが露呈されました。しかし、ペテロの書簡を読み、彼が「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(訳注:第一ペテロ4:14)」と言うのを聞くとき、彼はもはや以前のようなペテロではなく、彼のなかでキリストの御霊ご自身が息づき、語っておられるのだということがわかるのです。
ペテロが「あなたがたが召されたのは、キリストが苦しみを受けられたように、あなたがたも苦しみを受けるためです」(訳注 第一ペテロ2:21
原文から直接訳しました)と言う部分を見てみましょう。ペテロに何という変化が訪れたかがわかりますね。キリストを捨てるのではなく、自己を捨て、十字架につけ、死にわたされることに、彼は喜びと楽しみを見い出したのです。だからこそ、私たちは使徒行伝のなかでペテロのこのような姿を読むことが出来るのです。彼は議会の前に立たされた時、大胆に「人に従うより、神に従うべきです」と言い、そして他の弟子たちと共に、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら戻ってきたのです。
ペテロが自画自賛の人であったことはご存じの通りですが、しかし今や彼は「柔和で穏やかな霊という飾りこそ神の御前に価値がある(訳注:第一ペテロ3:4
参照)」ことだと見い出したのです。そして「互いに仕え合い、謙遜を身につけるように(訳注:第一ペテロ5:5 参照)」と繰り返し私たちに語るのです。
愛する友よ、私はあなたがたにお願いいたします。ペテロが完全に変えられたことに目を向けてください。---自己満足で、自信過剰で、自分勝手だったペテロが、罪に満ち、何度も失敗を繰り返し、愚かでせっかちだったペテロが、今や聖霊とイエスの命に満たされたのです。キリストが聖霊によってそのことをペテロの上に成して下さったのです。
では、このようにペテロの物語について簡単に説明した私の目的は何だったのでしょうか? この物語は、神によって本当に祝福とされるべき一人一人の信者の経歴でもあるべきなのです。この物語は、全ての人が天の神から受け取ることが出来るものについての預言なのです。
さあ、これらの教訓が私たちに何を教えてくれるのか、急いで見てみましょう。
第一の教訓はこれです。--- あなたはとても熱心で、敬虔で、献身的な信者でありながら、それでもまだ内側には肉の力が強く存在しているかもしれないということです。
これはとても厳粛な真理です。キリストを否定する前に、ペテロは悪霊を追い出したり、病人を癒したりしていました。それでもまだ肉が力を持っており、彼の中に肉が存在する余地があったのです。おお、愛する皆さん、私たちの内側にまだまだ多くの自我が残っているがゆえに、神が願っているいるほどには力強く神の力が働くことが出来ないのだと、私たちは悟るべきではありませんか。偉大なる神はその祝福を二倍にし、私たちを通して10倍の祝福を与えるよう切望しておられるのだということがわかりますか?しかしそうなさろうとする神を阻むものがあるのです。それは私たちの自我に他なりません。私たちはペテロが高慢で、せっかちで、自信過剰であったと言います。それは全て、「自我」というそのことに根差しているのです。キリストは「自我を捨てなさい。」とおっしゃられたのですが、ペテロはそれを決して理解することが出来ず、従うこともなかったのです。全ての失敗のもとはそこにあったのです。
何という厳粛な考えでしょうか。今すぐにでも私たちはこのように主に嘆願して叫ぶべきです。「おお神よ、あなたが私たちのうちで、誰も自我の生活に生きているような者を見つけることがありませんように!」自我の生活を送っていたことを神によって見い出され、自分の姿に気付くようにと教えられ、自らを非常に恥じ、神の御前に心砕かれて膝まづくというようなことは、重要な地位に着いたことがあるような、信仰歴の長いクリスチャンの多くにも起きたのです。あぁ、そのような人を襲った激しい恥と悲しみと痛みと苦悩といったら! そしてついにその人は解放があることを見い出すのです。 ペテロは外に出て激しく泣きました。内側で肉の力が支配している敬虔なクリスチャンは他にもまだ大勢いることでしょう。
では私の次の教訓はこれです。--- 自我の力を発見するのは私たちの聖なる主イエスの働きであるということです。
ペテロが、肉にあったペテロ、強情だったペテロ、自己愛の強かったあのペテロが、ペンテコステの人となり、書簡の著者になったというのは、どのようにして起きたのでしょうか。それはキリストが彼を治め、彼を見守り、彼を教え祝福して下さったことによるのです。キリストがペテロに与えた警告は訓練の一部でした。そして、最後にはあの愛のまなざしがあったのです。キリストは御自身の苦しみのなかにあってもペテロを忘れることなく、振り返って彼のことをごらんになりました。だから「ペテロは外に出て行き激しく泣いた」のです。ペテロをペンテコステにまで導かれたキリストは、自分自身を神に喜んで明け渡そうという全ての心を治めて下さろうと、今日も待っておられるのです。
このように言う人たちもいるのではありませんか?「あぁ!それこそが私にとってのわざわいの種だったのだ!いつだって自我の生活、自分勝手、自己満足、自意識過剰、強情、そればかりだった。一体どうすればこれを自分の中から取り除くことが出来るのだろう?」
私の答えはこれです。それをあなたから取り除くことが出来るのは、キリスト・イエスです。自我の力から私たちを解放して下さることが出来るのは、キリスト・イエスをおいて他にはいません。では彼はあなたに何をするようにとおっしゃっていますか? 自らを神の前にへりくだらさせなさいとおっしゃっているのです。
翻訳 中村佐知
Copyright(C) 2000 by Sachi Nakamura
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