ホームグレースライブラリー私は本当にみじめな人間です!

完全な明け渡し(Absolute Surrender)

by
アンドリュー・マーレイ(Andrew Murray)
初版:1895年 シカゴ ムーディプレス

「私は本当にみじめな人間です!」(O Wretched Man that I am!)

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

ローマ7:24、25

ローマ人へ宛てて書かれたこの素晴らしい書簡にある上記の箇所がどこにあるか、みなさんはよく御存知ですね。7章の終わりから8章へとつながる部分です。8章の最初の16節において、聖霊のお名前が16回出てきますが、神の子供が聖霊の力によって生きる人生がどのようなものであるか、どのような約束を頂いているのかについて、読むことが出来る箇所です。これは2節から始まります、「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」パウロはここから、神の御霊に導かれて歩むべき神の子供であることの素晴らしき特権について語り始めます。これら全てに至るまでの門戸が、7章の24節にあります。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。」

これは自分自身の限界まで来てしまった人の言葉です。この前までの節においてこの人は、神の聖なる律法を守るため自分自身の力でなんとかしようとして、いかに苦しみもがき、挙げ句に失敗してしまったかを語っています。しかし彼が自らの質問に答えんとするとき、彼は真実の答えを発見し、そして叫ぶのです。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」この時点から、彼は自分が発見した解放がどのようなものであるかを語り始めます。

これらの箇所から、人がいかにして奴隷の霊から自由の霊へと導き出されるのか、その道のりについて説明したいと思います。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく・・・」と、どれだけはっきりと書かれているか、御存知でしょう。再び奴隷へと逆戻りしてしまうこと、それこそがクリスチャンの歩みにおいて最も危険なことであると、私たちは常に警告されています。ですから、私は人が奴隷から神の子供としての栄光ある自由へと入っていくための道について語りたいと思います。さらに、その人そのものについても説明しましょう。

まず第一に、これらの言葉は新生した人の言葉であるということ、第二に、不能な人の、第三にみじめな人の、そして第四に完全な自由への境界線まで来ている人の言葉であるということです。

新生した人

この章の14節から23節には、新生の証拠が十分にあります。「それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」、これは新生した人、すなわち自分の心と本質が新しくされたと知っている人の言葉です。罪は彼にとって、もはや彼自身のものではなく、彼の内側にある力なのです。「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる」、これもまた新生した人の言葉です。彼は自分が悪を行うとき、あえてこのように言うのです、「それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」これは、このことについて理解するのにとても大切なことです。
  
この書簡の前半部分で、パウロは義認と聖化について取り扱っています。義認については、罪、それも単数形の罪(原罪)ではなく、複数形の罪--実際に犯す一つ一つの罪--に関する教えについての教義の基盤を築いています。5章の二番目の部分では、彼は実際に犯す一つ一つの罪ではなく、力としての罪について語り始めます。もしもローマ人への手紙の7章の後半部分がなかったとしたら、もしもパウロが信者の罪深さに関するこの大切な疑問を、彼の教えの中から省いていたとしたら、それは私たちにとって何という損失であったことでしょう! 私たちは皆、是非とも知りたいと思っている信者における罪という質問に対する答えを聞き損なっていたでしょう。その答えとは何でしょうか? 新生した人とはその意思が新たにされた人であり、その人こそこのように言うことが出来るのです、「私は、内なる人として、神の律法を喜んでいる・・・」

不能な人

多くのクリスチャンたちが犯してきた間違いがあります。それは、新たにされた意思さえあれば、十分であると考えることです。でも、現実にはそうではありません。この新生された人は私たちに言います、「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」堅い決意さえあれば、自分の意思の通りに行うことが出来るものだと誰もが言います! しかし、この人もまた、出来うる限り精一杯決意していたのですが、それでもまだこのように告白したのです。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」

しかし、あなたはこう尋ねるでしょう、「神はなぜ新生した人にこんな告白をさせるのでしょう? 正しい意思と善いことをしたいと願う心を持ち、神を愛するために自分にとって出来うる最善をなしたいと願う人であるのに?」

ではこの質問について考えてみましょう。神はなんのために私たちに意思を下さったのですか? 自らの意思で堕落した天使たちは、誘惑に打ち勝てるだけの力を持っていたのでしょうか? 決してそんなことはありません。被造物の意思とは、神の力が現わされるための空っぽの器であるに過ぎないのです。被造物は、自分に関する全てのことにおいて神を求めなくてはなりません。神の働きとは、神の御心のままに私たちに志を立てさせ、またそれを行わせてくださることにあるのだと、ピリピ人への手紙の第2章に書いてありますが、このローマ人への手紙の箇所においてもそれを見ることが出来ます。この人は「神は私のなかで事を行わせてくださっていない」と言っているように見受けられます。しかし私たちは、神は私たちのなかに志を立てさせ、そしてそれを行わせるよう働いてくださると教えられているのです。この明らかな矛盾は、どのようにして解決されるのでしょう?

この箇所(ローマ7章6〜25節)において、聖霊の御名は一度も出てきませんし、キリストの名も出てこないということに気付かれることでしょう。 この人は神の律法を行おうと苦しみもがいています。聖霊やキリストの御名のかわりに、律法は20回近く言及されています。この章においてわかるのは、信者が自分の新生された意思をもって神の律法に従おうと出来うる限りの努力をしているということです。それだけではありません。他にも、私は(I)、私を(me)、私の(my)という言葉は40回以上使われています。新生されたが、不能でありながら、御霊に満たされることなく律法に従おうとしているのです。これは信者ならほとんど誰もが経験することでしょう。回心の後、人は自分に出来うる最善を尽くそうと努力し始め、そして失敗するのです。しかし私たちが完全な光のなかに入れられるのであれば、私たちはもはや失敗する必要はありません。回心のときに御霊をその満ち満ちた様にまで頂いていたのであれば、最初から失敗する必要などないのです。

神は、新生した人が自分自身だけでは全くの不能であることを教えるために、失敗を許されるのです。この苦しみもがきのなかでこそ、私たちは自分の罪深さについてはっきりと知るようになるのです。神はこのようにして私たちを取り扱われるのです。神が人が律法を全うしようとして努力することを許すのは、それによって人がもがき苦労するなかで、ついには「私は新生した神の子供である、しかし神の律法に従うにはまったく無力だ」と言えるようになるためなのです。このような状態を表現するために、この章全体を通して、どれだけはっきりとした言葉が使われているか気付きましたか?「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」、「私のからだの中には異なった律法があって、私をその罪の律法のとりこにしているのを見い出します」、そして最後にはここまで言っています、「私はほんとうにみじめな人間です! だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ここで深い悔い改めのなかで頭を垂れているこの信者は、神の律法にどうにも従うことが出来ないでいるのです。

みじめな人

この告白をしているのは、新生して、不能であるだけでなく、みじめな人でもあります。彼はまったく不幸で、どうしようもないのです。しかし何が彼をそんなにもみじめにするのでしょう? それは、神はその人が神御自身を愛するような性質に作られたからです。彼は自分の神に従っていないように感じるので、深く落胆しているのです。彼はつぶされそうな心で言います、「これは私が自分でやっているのではないのだ! 私は恐ろしい罪の力のもとにあって、それが私を押さえ付けているのだ! 私であって私ではない。 あぁ、あぁ! それはがっちりと私を縛りあげ、私自身の本性のなかにしっかりと埋め込まれてしまっている・・・ 確かに私自身だ・・・」心の底から「私はみじめな人間です!」と告白することを学んだ人は、なんと幸いであることでしょう! その人はローマ人への手紙第8章へと向かう途中にいます。

なかにはこの告白を、罪の温床のようにしてしまう人も大勢います。そのような人たちは、パウロでさえ自分の弱さや無力さをこのように告白せざるを得なかったのなら、どうして私たちがパウロ以上に努力することが出来ようか、などと言うのです。そして私たちは神の聖さに預かるべき者なのだということが、どこかに置き去りにされてしまうのです。しかし神は、私たち一人一人がここに書かれている通りのパウロの気持ちそのままに、これらの言葉を言うようになることを願っておられるのではないでしょうか? 罪とは、神がどれだけ激しく憎まれる、恐るべきものであるかと聞くごとに、私たちは皆その言葉の前に縮みあがるのではないですか? 毎日毎日罪を犯し続けてしまう私たちクリスチャンがみな、この御言葉を心に留めるようになりますように! もしもあなたが人を傷つけるような言葉を言ってしまうことがあれば、「あぁ、私はみじめな人間です!」と言うべきです。あなたが癇癪を起こすたびに、神は御自分の子とされた者がいつまでもこのような状態に留まることを願ってはおられないと、膝まづいて理解すべきです。私たちがこの言葉を自分たちの日々の生活のなかに取り入れて、自分の栄誉を求めてしまうたびに、きつい言葉を口から出すたびに、主なる神に罪を犯すたびに、謙遜、従順、自制のお方である主なるイエス・キリストに対して罪を犯すたびに、私たちがこれを告白することを神は望んでおられるのではありませんか? 神の御前に他のことは全て忘れて、ただ「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか!」とあなたがたが叫ぶようになりますように!

なぜあなたは罪を犯すたびにこのことを言う必要があるのでしょうか? それは、私達がこれを告白するところまで導かれたときこそ、はじめて解放がやって来るからなのです。

そして人がみじめに感じるのは、ただ単に自分が不能で罪のとりこにされてしまっているから、というだけではないことも忘れてはいけません。何よりも、自分の神に対して罪を犯しているという、そのことゆえにみじめになるのです。律法はそのなすべき働きをし、人の目にも罪を恐ろしく罪深いものであることを悟らせます。神を絶え間なく悲しませているというその思いのゆえに、人はとてつもない耐え難さを覚えるのです。そしてそれこそが「あぁ、私はみじめな人間です!」という悲痛な叫びへと私たちを導くのです。私たちの不能さと失敗だけに目をとめてローマ人への手紙七章の意味について考えようとするのであれば、私たちにとってほとんど何の益もないでしょう。しかし、一つ一つの罪が、私たちのみじめさの感覚に新たな重みを与えるようになるのであれば、そして私たちが単に無力であるというだけでなく、実際に恐るべきほどに罪深いのであると感じるようになるのであれば、「誰が私たちを救い出してくれるでしょうか!」と嘆くだけでなく、さらに「私の主、イエス・キリストのゆえに神に感謝します!」と叫ぶことが出来るのです。

ほとんど解放されている人

この人は、神の麗しい律法に従おうと努力しました。律法を愛し、自分の罪のゆえに涙し、何とか克服しようとし、失敗に次ぐ失敗にも打ち勝とうと頑張りました。しかし、にもかかわらず毎回失敗に終わっていたのです。
 
彼が「この死のからだ」と言ったとき、彼は何を意味していたのでしょう? 自分が死ぬ時の体、という意味だったのでしょうか? 決してそんなことはありません。第8章の御言葉のなかにこの答えを見ることができます。「御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」これこそが、パウロが解放されたいと願っている死のからだなのです。

今や彼はもう少しで解放されるところまで来ています! 7章23節で次のようにあるのを見ました。「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」このとりこにされている者が「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫ぶのです。自分自身が縛られていると感じているのです。しかし、8章2節を見てみましょう。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」なんと対照的であることでしょう。これこそが我々の主、イエス・キリストによる解放であり、御霊が捕われ人にもたらしてくれる自由なのです。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」によって解放された人を、これ以上とりこにし続けることが出来るでしょうか?

しかしあなたは言うでしょう、新生された人が6章で語っていたとき、彼はすでにイエスの御霊を持っていたのではありませんでしたか、と。その通りです。しかし彼はまだ御霊が彼のために何をなさることが出来るのか、知らなかったのです。

神が御霊をもって働かれる様は、自然界においてやみくもな力をもって働かれるのとは違います。神は人々を、合理的で知的な存在であるとして導きます。それゆえに神は約束の御霊を与えて下さるときには、まず最初に私たちを自我の終わりにまで、自分の努力で律法の従おうとしたけれでも自分ではどうしようもなかった、と確信するに至るまで、導かれるのです。私たちがその終わりのところまで来たとき、神は聖霊によって初めて私たちは従順の力を、勝利の力を、真の聖さの力を持ちうるのだと示してくださるのです。

神は私たちのうちに働いて志を立てさせてくださいます。そして事を行わせて下さろうとしておられるのです。しかし、あぁ、多くのクリスチャンがこれを誤解しているのです。彼らは自分たちには志があるのでそれで十分である、すぐにそれを行うことが出来る、と考えているのです。そうではありません。この新しい志は永遠の賜物であり、新しくされた性質に伴うものです。しかしそれを行う力は永遠の賜物ではありません。その時その時に聖霊から頂かなくてはならないものなのです。信者としての自らの不能さをよくわきまえている人こそが、聖霊によって聖い生活を送ることが出来るのだと学ぶ人でしょう。この人は今まさに素晴らしい解放を経験しようとしています。栄光に輝く第8章への道は整えられたのです。今、私はおごそかにこう尋ねましょう:あなたはどこにいますか? 時折聖霊の力をわずかばかりに感じつつ「私は本当にみじめな人間です、誰が私を救い出してくれるでしょう?」と言っているところですか? それとも「私たちの主イエス・キリストのゆえにただ神に感謝します、御霊の原理は私を罪と死の原理から解放してくれました!」と言っているところですか?

聖霊様のなさることは、勝利を与えることです。「もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」これをなすのは聖霊です--父・子・御霊の神格における第三のお方です。それは、この方を受け入れるために心が広く開かれているとき、そこに入ってきて治めて下さるお方であり、日々、一刻一刻、瞬間瞬間に、からだの行いを殺してくださるお方であるのです。

私はこの点を強調したいと思います。覚えておいてください、親愛なる友よ、私たちに必要なのは、決心して、それを実行に移すことです。御言葉のなかには二つのとても異なるタイプのクリスチャンが出てきます。聖書はロ−マ書、コリント書、ガラテヤ書においては、肉にゆだねてしまうことについて語っていますが、それこそが何千何万ものクリスチャンの姿です。聖霊にある喜びの欠如、神が下さる自由の欠如などは肉に負うところが多いのです。彼らのなかに御霊は宿っているのですが、肉が彼らの生活を支配しています。神の御霊に導かれることこそ彼らにとって必要なことです。 永遠の神がご自身の愛する御子であるキリスト・イエスを、日々私たちを見守るために与えてくださったということが何を意味しているのかということ、私たちがなすべきなのは、ただ信頼することだということ、そして、聖霊の働きとはあなたがいつでもイエスを心にとめ、彼に信頼出来るようにしてくださることなのだということ-- これらのことを私が全ての神の子供たちに理解させられるよう神が助けてくださいますように! 御霊はイエス様とのつながりが決して途切れることがないようにするためにこの世に来てくださったのです。聖霊のゆえに神をほめ讃えましょう! 私たちは、聖霊とは何か贅沢品であり、特別な時、特別な働き、特別な人のためだけにあるかのように考えることに慣れてしまっています。しかし、聖霊は、全ての信者にとって、毎日、どんな時にも必要なのです。あなたが御霊をいただいていることのゆえに神をほめ讃えましょう。また御霊が私たちを罪の力から自由にし、私たちにキリストによる解放を完全に体験させて下さることのゆえに神をほめ讃えましょう。

聖霊による力と自由を欲している人はいますか? おぉ、兄弟よ、神の前に膝まづき、必死の叫びをもう一度だけあげましょう。

「おぉ、神よ、私はこのように一生罪を犯し続けなければならないのでしょうか? 私は本当にみじめな人間です、誰が私をこの死の身体から解放することが出来るでしょう?」

神の御前にもう一度身をかがめ、このように叫んでイエスの力があなたがたの中に宿り、働いてくださるのを求める用意は出来ていますか?

たとえ私たちが教会へ行き、大会に参加し、聖書を学び祈ったとしても、私たちの人生が聖霊によって満たされていないのなら、どんな意味があるでしょう? それこそが神が望んでいることであり、それ以外には私たちには力と平安の人生を歩みようがないのです。牧師や親が問答集を使って教える時、質問がなされればそれに対する答えが期待されているものだということは皆さんも御存知ですね? あぁ! どれだけ多くのクリスチャンがここに出てくる「私は本当にみじめな人間です、誰が私をこの死の身体から解放することが出来るでしょう?」という質問だけで満足してしまい、決して答えを出さないでいることでしょう。答える代わりに沈黙しているのです。「私たちの主、イエス・キリストのゆえに神に感謝します」と言う代わりに、彼らは答えのない質問をいつまでもいつまでも投げかけ続けているのです。もしあなたがキリストによる完全な解放への道や御霊による自由、そして神の子供たちに与えられている栄光の自由を望むのであれば、ローマ書の7章まで進みなさい。そして「私たちの主、イエス・キリストのゆえに神に感謝します」と言いなさい。いつまでも呻き続けていることに満足するのでなく、「私は、みじめな人間ですけれど、それでもイエス・キリストのゆえに神に感謝します、今は全てを見ることは出来ませんが、それでも私は神を賛美します」と言ってごらんなさい。

解放はあります。御霊の自由はあるのです。神の御国は「聖霊による喜び」なのです。


翻訳 中村佐知
Copyright(C) 2000 by Sachi Nakamura

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