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子供のために祈ることについて、はちこの日記から、二つほどシェアします。 6/14/1998聖書とはまったく不思議な書物で、同じ箇所を何回読んでも、その都度語られること、示されることは違っていたりする。 あるいは、すでに何十回も同じ箇所を読んでいて、もうその部分は十分に知り尽くしていると思っていても、ある日突然、今までまったく気にもとめなかったような一節が、あたかもボールド体で書かれているかのように目の前に飛び込んできて、新しい啓示が与えられることもある。 今日もそうだった。 私は創世記の17章を読んでいた。この箇所は神様がアブラハムに、約束の子供イサクをサラを通して与えると語っているところである。 「また神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出る。』」(15、6節) これはものすごい約束である。ところがアブラハムの心はこれから与えられるイサクよりも、彼が先に侍女ハガルに生ませていたイシュマエルの方に向いていた。 このアブラハムの心情は、二人目の子供を妊娠したことのある人ならきっとわかるだろう。 一人目を妊娠した時は、まだ生まれる前からその子供が愛しくて、その子のことばかり思っていたものだった。ところが二人目を妊娠したときは、考えるのは一人目のことばかり。「今まで親の愛情を一身に受けて育ってきたのに、急に弟か妹ができたりしたら、この子はいじけてしまうのではないかしら。ちゃんとうまく適応できるのかしら…」 アブラハムとしても、サラを通してもう一人の子供が与えられるのは感謝だけれど、やはりすでに生まれているイシュマエルの今後のことが心配だったに違いない。彼は神様にこのように言った。 「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(18節) これに対して神様は、なおもイサクについて執拗に(?)アブラハムに語り続ける。 「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約をたて、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」 (19節) イサクの誕生というのは今後の全人類にとってとても大切なことなのだ。神様はこのことをはっきりとアブラハムに語らねばならなかった。しかし、続けて神様はこのように言われた。 「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。」(20節) 今日、私の目にボールド体で飛び込んできたのはここである。 「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。」 イシュマエルは137歳まで生きて多くの子孫を残した。もしもアブラハムが彼のために神様にとりなしをしていなかったのなら、イシュマエルは若くして死んでいたかもしれない。親が自分の子供を神様の御前に持ち上げて、その子を祝福していただくようお願いするということはものすごく大切で意味のあることなのだ! 神様はそのような親心の祈りをちゃんと聞き届けて下さるのだ! 私の子供たちはビリー・グラハムやチョー・ヨンギ師のように偉大な伝道師や牧師にはならないかもしれない。(まずならないだろう。)そのような形で主に用いられることはないかもしれない。(まずないだろう。)しかし私が娘たちを主の御前にもちあげて、「どうかこの子供たちを祝福して下さい」と祈るなら、きっと神様は「あなたの子供たちについては、あなたの言うことを聞き入れた」と言ってくださるのだ! だから今日も感謝しつつ、娘たちのために祈ろう。 9/5/19984年前、エミは教会で遊んでいるときにテーブルに正面衝突をして前歯(乳歯)がグラグラになるという怪我をした。私が聖歌隊の練習をしている最中で、高校生の女の子が子供数人の子守をしてくれていたときの出来事だった。 歯茎が紫色に腫れ上がり痛がって泣くエミを見るのはつらかった。夜9時すぎだったけれど歯医者に電話をしてなんとかしてください!と泣きついたりもした。 エミがそんなケガ(今にして思えばそれほど大したことではなかったのだが、何しろ一人めの子供だったので…)をしたことがどうにも恨めしく、泣いて神様に抗議した。 握りこぶしをふりまわしながら祈った。 主人に肩を抱かれ泣きながら祈っているうちに、私の抗議の言葉はいつの間にか賛美に変わっていた。 私が命がけで娘を愛していると思うそれ以上に、神様はもっともっとエミのことを愛していてくださっているということがわかったからだった。 子供が小さいうちは一日24時間ずっと一緒にいることができる。私がこの目でずっと見守っていることも可能だ。しかし子供は成長していくのだ。だんだんに私の手を離れていくのだ。学校に行くようになるにしたがって、私から離れた場所にいる時間がどんどん長くなっていく。小学生のうちは物理的に私から離れるだけだろうが、中学生、高校生になれば精神的にも私から離れていってしまうのだ。 どうして私ごときにエミのことを完全に守ることなど出来ようか? 神様は私の心に語られた。 「あなたの手を離しなさい。エミを握りしめているその手を離しなさい。わたしはエミを一時的にあなたの手に預けた。しかしエミはわたしの子だ。究極的にはわたしがエミを守るのだ。あなたの目がとどかないところでも、わたしの目はとどく。あなたのコントロールが利かないところでも、わたしは全てを治めている。わたしの守りを信じなさい。わたしに信頼してエミをわたしに委ねなさい。あなたはわたしが語るままに、あなたのなすべきことを精一杯やっていればよいのだ。さあ、あなたの手を離しなさい。」 その日の夜中、私はエミのベッドサイドにひざまずき、泣きながら祈った。 エミを神様の御手に委ねます、と・・・ もちろんそれは私の母親としての義務を放棄するという意味ではない。「親はなくとも子は育つ」とばかりに放任するという意味ではない。とんでもない! 子供を神様の御手に委ねるとは、その子の人生における神様の主権を認めるということなのだ。 主権を持つのは私ではなくあなたです、と認めることなのだ。本当はとても難しい。神様に明け渡したはずの主権を、いつの間にかまた私が奪回しようともがいている自分に気付く。 Even so, Lord..... I commit my children to You.... (1/2000) |